2013年05月23日
南西諸島航海記 旅の終わりに
2000年7月24日〜30日 旅の終わりに
夕方、ツアーを終えて帰ってきたタイガさん(柳澤さん)と合流し、固い握手を交わす。実は旅の初日に連絡し、ザックや当面旅にいらないものなどは送らせて頂いていたのだ。石垣島に背負っていったザックを再び目にすると、あの始まりの日には想像もつかなかった数々のドラマが蘇り、胸が熱くなる。
この日の日付でタイガさんの家に美味しいフルーツジュースが届いていた。実は数日前から連絡をとっていた友人が、この日に私が到着をすると見込んで、内緒で送ってくれたのだった。もちろんビールで乾杯だったが、記念にこのジュースもたっぷりとおいしく頂いた。ビール共々染み入る味わいだったことは言うまでもない。
嘉鉄の海岸に上陸。事実上のゴールの瞬間だ。この後台風6号の迷走によって帰る前日まで嘉鉄で缶詰に。加計呂麻島などをゆっくりと周れず、かえって奄美への思いを強くすることになる。
旅から4年後、最初の子どもが生まれる。魂に深く刻まれた南西諸島の紺碧の海の色からとり、「碧 あおい」と名付けた。さらに3年後、ふたりめの誕生。こちらは妻が本などで調べてつけたのだが、気がつけばみつめてきた広大な蒼空のように「蒼大 そうた」となった。碧い蒼い島暮らしとは、まさに彼らとの島での暮らしのことなのである。
2007年、奄美に移住してシーカヤックツアーを始める。この航海をいっしょに乗り越えてきたパートナー、いや自分の一部のようなシーカヤックが染められてた色。水色ともエメラルドとも言えない不思議な色。南洋を漕いできた熱い記憶と、海から教えられた大切なメッセージをいつまでも忘れないという思いを込め、そのカヤックの色をとってGulfblue kayaks(ガルフブルーカヤックス)とした。遠浅の海を漕ぐと、時々水があのカヤックの色と同じGulfblueにそまる。そんなときは旅の記憶がいまでも強く、蘇ってくる。


7月24日、到着日の夕方。
タイガさんと13年前のなにわ食堂で夕飯。うまかったです!

この湾で遊んでいた学生時代。
夢の始まりを懐かしく振り返り、
そして完遂をしみじみと味わう。

タイガさんこと柳澤さんのご自宅にて。
結局この日から1週間も泊めて頂くことに。

7月25日。
タイガさんのカヤックツアーでこられていた方々。
お泊りの渡連まで忘れ物届けに横断。
島渡からすれば大島海峡くらいなんでもない。
台風前の平和で愉快な水遊び。

25日夜から台風6号が急接近。
濃厚な夕焼けの色が荒天を伝えている。

吹き飛ばされる前にカヤックを家の裏に運ぶ。
実に5日間も缶詰。また奄美をゆっくりまわろうと強く思った。
旅の記録 石垣に始まり、奄美で終わった24日間。
漕いだ距離、約630km。
2000年
6月29日 石垣島へ
6月30日 石垣島(登野城)〜西表島(網取)57.41km
7月1日 西表島(網取)〜小浜島 50.00km
7月2日 小浜島〜石垣島(登野城)16.60km
7月3日〜6日 登野城〜白保〜石垣港 27.80km
石垣港〜那覇 フェリーで渡る。
7月8日 那覇〜前島〜渡嘉敷島〜座間味島 45.00km
7月12日 座間味島〜渡名喜島 22.20km
7月13日 渡名喜島〜粟国島 25.50km
7月14日 粟国島〜伊江島 57.40km
7月16日 伊江島〜沖縄本島(辺土名)34.20km
7月17日 辺土名〜奥 23.1km
7月18日 奥〜与論島(茶花)27.7km
7月21日 与論島〜沖永良部島(知名)35.18km
7月22日 知名〜和泊 9.2km
7月23日 沖永良部(和泊)〜徳之島(亀津)55.56km
7月24日 徳之島(亀津)〜奄美大島(嘉鉄)56.48km
4月末から始めた南西諸島航海記。気がつけば一ヶ月に及びました。もうすぐ奄美の若者、白畑瞬君が、結人プロジェクトとして沖縄の奥から奄美まで、カヌーで渡る挑戦にでます。思えば彼が僕を訪ねてくれたからこそ蘇った13年前の記録でした。白畑くんもきっと碧い蒼い海と空に身も心も染まり、最高の旅をしてくることでしょう。この記録が、海の旅をする人々を勇気づけ、安全判断の選択肢をひつとでも増やす助けになることを願い、ここに南西諸島航海記の終わりを宣言いたします。
ながいながいブログとなりましたが、お付き合いいただき誠にありがとうございました。また急に思い出したように、断片的に外伝のようなものが出てくる可能性大ですが、ひとまずのんびりブログにもどります。それではまた日常ブログにてお会いいたしましょう。ごきげんよう。
2013年5月23日 自宅にて
夕方、ツアーを終えて帰ってきたタイガさん(柳澤さん)と合流し、固い握手を交わす。実は旅の初日に連絡し、ザックや当面旅にいらないものなどは送らせて頂いていたのだ。石垣島に背負っていったザックを再び目にすると、あの始まりの日には想像もつかなかった数々のドラマが蘇り、胸が熱くなる。
この日の日付でタイガさんの家に美味しいフルーツジュースが届いていた。実は数日前から連絡をとっていた友人が、この日に私が到着をすると見込んで、内緒で送ってくれたのだった。もちろんビールで乾杯だったが、記念にこのジュースもたっぷりとおいしく頂いた。ビール共々染み入る味わいだったことは言うまでもない。

旅から4年後、最初の子どもが生まれる。魂に深く刻まれた南西諸島の紺碧の海の色からとり、「碧 あおい」と名付けた。さらに3年後、ふたりめの誕生。こちらは妻が本などで調べてつけたのだが、気がつけばみつめてきた広大な蒼空のように「蒼大 そうた」となった。碧い蒼い島暮らしとは、まさに彼らとの島での暮らしのことなのである。
2007年、奄美に移住してシーカヤックツアーを始める。この航海をいっしょに乗り越えてきたパートナー、いや自分の一部のようなシーカヤックが染められてた色。水色ともエメラルドとも言えない不思議な色。南洋を漕いできた熱い記憶と、海から教えられた大切なメッセージをいつまでも忘れないという思いを込め、そのカヤックの色をとってGulfblue kayaks(ガルフブルーカヤックス)とした。遠浅の海を漕ぐと、時々水があのカヤックの色と同じGulfblueにそまる。そんなときは旅の記憶がいまでも強く、蘇ってくる。


7月24日、到着日の夕方。
タイガさんと13年前のなにわ食堂で夕飯。うまかったです!

この湾で遊んでいた学生時代。
夢の始まりを懐かしく振り返り、
そして完遂をしみじみと味わう。

タイガさんこと柳澤さんのご自宅にて。
結局この日から1週間も泊めて頂くことに。

7月25日。
タイガさんのカヤックツアーでこられていた方々。
お泊りの渡連まで忘れ物届けに横断。
島渡からすれば大島海峡くらいなんでもない。
台風前の平和で愉快な水遊び。

25日夜から台風6号が急接近。
濃厚な夕焼けの色が荒天を伝えている。

吹き飛ばされる前にカヤックを家の裏に運ぶ。
実に5日間も缶詰。また奄美をゆっくりまわろうと強く思った。
旅の記録 石垣に始まり、奄美で終わった24日間。
漕いだ距離、約630km。
2000年
6月29日 石垣島へ
6月30日 石垣島(登野城)〜西表島(網取)57.41km
7月1日 西表島(網取)〜小浜島 50.00km
7月2日 小浜島〜石垣島(登野城)16.60km
7月3日〜6日 登野城〜白保〜石垣港 27.80km
石垣港〜那覇 フェリーで渡る。
7月8日 那覇〜前島〜渡嘉敷島〜座間味島 45.00km
7月12日 座間味島〜渡名喜島 22.20km
7月13日 渡名喜島〜粟国島 25.50km
7月14日 粟国島〜伊江島 57.40km
7月16日 伊江島〜沖縄本島(辺土名)34.20km
7月17日 辺土名〜奥 23.1km
7月18日 奥〜与論島(茶花)27.7km
7月21日 与論島〜沖永良部島(知名)35.18km
7月22日 知名〜和泊 9.2km
7月23日 沖永良部(和泊)〜徳之島(亀津)55.56km
7月24日 徳之島(亀津)〜奄美大島(嘉鉄)56.48km
4月末から始めた南西諸島航海記。気がつけば一ヶ月に及びました。もうすぐ奄美の若者、白畑瞬君が、結人プロジェクトとして沖縄の奥から奄美まで、カヌーで渡る挑戦にでます。思えば彼が僕を訪ねてくれたからこそ蘇った13年前の記録でした。白畑くんもきっと碧い蒼い海と空に身も心も染まり、最高の旅をしてくることでしょう。この記録が、海の旅をする人々を勇気づけ、安全判断の選択肢をひつとでも増やす助けになることを願い、ここに南西諸島航海記の終わりを宣言いたします。
ながいながいブログとなりましたが、お付き合いいただき誠にありがとうございました。また急に思い出したように、断片的に外伝のようなものが出てくる可能性大ですが、ひとまずのんびりブログにもどります。それではまた日常ブログにてお会いいたしましょう。ごきげんよう。
2013年5月23日 自宅にて
2013年05月21日
南西諸島航海記 最後の横断 壁のような大波群
2000年7月24日 徳之島〜奄美大島 南の風のち南東の風強く 波3m
最後の横断 壁のような大波群
飲み会にもならず、出会いもなく、久しぶりに静かなテント泊だった徳之島。早朝から髪なびく風を感じながら、出港の支度を整える。そしていよいよ最後の横断が迫る。目指は奄美大島だ。距離の長さから島影がみえないことも想定し、念入りに方位、距離を計っておいた。直感の知らせは大丈夫だと言い続けている。そしてやすらかな休息をさせて頂いた徳之島、そのありがたい御縁に再び感謝をし、外洋へと旅立つ。

亀津の港をでると、それはそれは時化ていた。カヤックはばっちゃんばっちゃんと叩きつけられるように波を切り裂いていく。いちどすぐ近くを漁船が通った。激しい船の揺れ方は時化の大きさを物語っていた。が、行く。
<風が波を育てる>
風は、その走る距離が長いほど波を大きく育てることをご存知だろうか。どんな強風も水の上を走り初めの頃は波はあまりない。それがやがて5km、15km、30kmと走るにつれ、波は巨大化していく。この日、1時間、2時間と漕いでい進むにつれ、うねりは巨大化していった。おそらくこの旅で漕いだもっとも大きな波だっただろう。巨大としかいいようのない谷から、おおきくなだらかな丘を見上げる。そして次はその丘のてっぺんから、雄大な谷を見下ろす。時にはその斜面をそりのように滑走し、あまりの速さに怖くなって自分でブレーキをかける。そんな時間が続いた。曇り空、海はダークブルーにそまり、1時間程漕ぐとはるか前方に請島の影が見えてきた。もう後には戻らない。
<肩口から崩れる追い波>
壁のような追波群のなか、それでも1時間に1回は休憩。上下に揺さぶられるなか、油断はできない緊張が走る。パドルをコードでつないでバナナを食べる。すると急に肩口から白波が崩れて襲いかかる。気がつくとバナナの上の部分だけ失くなっていたりする。なので、バナナを頬張る時は常に右後方のうねりをみながら、タイミングよくパクっと食べるのがコツだった。
<シーカヤック、ミサイル発射!>
碧い蒼い外洋で、度々トビウオが逃げるように飛んでいく。徳之島〜奄美の区間は特に多かった。少し離れた場所から3、4匹がひゅ〜っと飛んでいく。30mは飛行しているだろう。すると今度はカヤックの反対側からまた飛ぶ。長いやつは最大で150mほど飛ぶらしい。やがてどんどん数が増え、右から5匹、左から5匹、今度は同時に10匹と、連続飛行祭りが始まる。しまいにはカヤックのすぐ舳先から左右前方に飛んでいく。その様はまるでシーカヤックからミサイルを発射しているようで壮観だった。孤独なはずの外洋航海も、トビウオたちの饗宴で飽きることがない。
こうして壁のような追波群に飛ぶようにのって進み、ぐんぐんと奄美に近づいていった。
<不思議な幻との対峙>
約7時間は漕いだ辺りで、請島を通過。請島水道の出口は、まるで巨大な激流ように流れている。強い風、潮の流れ、大きな波もすべて後方からカヤックを押し、動く歩道のごとく進んでいく。そして請島水道を越え、加計呂麻島の断崖絶壁が迫った。精神は研ぎ澄まされ、体は燃えるように暑く燃焼し、大時化とも呼べる海を進んでいく。すると何が起きたのか、段々と幻のようなものが見えてきた。肉眼では、土が露出した加計呂麻島の崖、濃紺な海、どんよりとした空や自分のカヤックを見ている。その一方で、もうひとつの目のようなものが過去を走馬灯の様に見つめていたのだ。
<心が浄化されていく>
かつて自分がいちばん裏切り、傷つけ、失望させたであろう人達の姿。また、自分でも一番心に後悔や自責の念をもっていた出来事。なぜあのときあんなことを言ったのか、なぜあのときこうできなかったか…。自分でもなんで今こんなものが見えるのか理解できないまま、浮かんでは鮮明にみえる幻を見つめていた。やがて、わかったよ…、わかったから…とうように、自分の未熟さや至らなさを深く受け入れていった。はからずも悲しませたり怒らせたり、失望させた人々へ、自然と深くお詫びをする気持ちになっていく。。そして自分のなかで止まってしまっていたその問題が動き出し、未熟さに気づかせてくれたことを感謝していった。次第に幻は薄れ、まるで雪が陽に当たるように心の苦しみが溶けて消えていき、暖かい光に照らされているような気分になっていく。不思議とその間も体は必至に漕ぎ続けているのだ。
段々と視界が、肉眼でみているものと一致し始める。そこは、見慣れた大島海峡の入り口だった。ついにたどり着いた奄美大島。旅を始めて24日目の、夕方の事だった。
<夢の始まりの場所へ>
壁のような大波もさすがに海峡に入れば少しは静まっていく。大島に着いた安堵は言葉にならないくらい大きかった。まずはひと休みと思い、ヤドリ浜に向かう。すると、カヤックがみえる。それは今も嘉鉄にある海辺のさんぽ社の、柳澤さんのツアーだった。

たまたま居合わせたカヤックツアーの方と記念撮影。
沖縄からきたといったら飛び上がって驚いていた。
ツアーのお客さんたちと記念撮影をし、本来のゴールに決めていた嘉鉄に向かう。嘉鉄…。カヤックを始めて間もない自分が始めて奄美を訪れたとき、思い出深い時間を過ごした場所。東京の雑踏で生まれ育った人間が、いきなり大島海峡の海のあまりの美しさにしびれてしまった大学時代。シーカヤックマラソンの前後で漕ぎ、泳ぎ、キャンプをし、いつまでもここにいたいと強く心に刻まれた時間だった。そのとき南の島を渡る旅の夢をみて、そしていま、沖縄から漕いできて浮かんでいることが夢のようだった。

ツアーメンバーと別れ、先に嘉鉄にはいる。
夢の始まりの場所への記念すべき帰還の瞬間だった。
次回、最終回「旅の終わりに」
最後の横断 壁のような大波群
飲み会にもならず、出会いもなく、久しぶりに静かなテント泊だった徳之島。早朝から髪なびく風を感じながら、出港の支度を整える。そしていよいよ最後の横断が迫る。目指は奄美大島だ。距離の長さから島影がみえないことも想定し、念入りに方位、距離を計っておいた。直感の知らせは大丈夫だと言い続けている。そしてやすらかな休息をさせて頂いた徳之島、そのありがたい御縁に再び感謝をし、外洋へと旅立つ。

亀津の港をでると、それはそれは時化ていた。カヤックはばっちゃんばっちゃんと叩きつけられるように波を切り裂いていく。いちどすぐ近くを漁船が通った。激しい船の揺れ方は時化の大きさを物語っていた。が、行く。
<風が波を育てる>
風は、その走る距離が長いほど波を大きく育てることをご存知だろうか。どんな強風も水の上を走り初めの頃は波はあまりない。それがやがて5km、15km、30kmと走るにつれ、波は巨大化していく。この日、1時間、2時間と漕いでい進むにつれ、うねりは巨大化していった。おそらくこの旅で漕いだもっとも大きな波だっただろう。巨大としかいいようのない谷から、おおきくなだらかな丘を見上げる。そして次はその丘のてっぺんから、雄大な谷を見下ろす。時にはその斜面をそりのように滑走し、あまりの速さに怖くなって自分でブレーキをかける。そんな時間が続いた。曇り空、海はダークブルーにそまり、1時間程漕ぐとはるか前方に請島の影が見えてきた。もう後には戻らない。
<肩口から崩れる追い波>
壁のような追波群のなか、それでも1時間に1回は休憩。上下に揺さぶられるなか、油断はできない緊張が走る。パドルをコードでつないでバナナを食べる。すると急に肩口から白波が崩れて襲いかかる。気がつくとバナナの上の部分だけ失くなっていたりする。なので、バナナを頬張る時は常に右後方のうねりをみながら、タイミングよくパクっと食べるのがコツだった。
<シーカヤック、ミサイル発射!>
碧い蒼い外洋で、度々トビウオが逃げるように飛んでいく。徳之島〜奄美の区間は特に多かった。少し離れた場所から3、4匹がひゅ〜っと飛んでいく。30mは飛行しているだろう。すると今度はカヤックの反対側からまた飛ぶ。長いやつは最大で150mほど飛ぶらしい。やがてどんどん数が増え、右から5匹、左から5匹、今度は同時に10匹と、連続飛行祭りが始まる。しまいにはカヤックのすぐ舳先から左右前方に飛んでいく。その様はまるでシーカヤックからミサイルを発射しているようで壮観だった。孤独なはずの外洋航海も、トビウオたちの饗宴で飽きることがない。
こうして壁のような追波群に飛ぶようにのって進み、ぐんぐんと奄美に近づいていった。
<不思議な幻との対峙>
約7時間は漕いだ辺りで、請島を通過。請島水道の出口は、まるで巨大な激流ように流れている。強い風、潮の流れ、大きな波もすべて後方からカヤックを押し、動く歩道のごとく進んでいく。そして請島水道を越え、加計呂麻島の断崖絶壁が迫った。精神は研ぎ澄まされ、体は燃えるように暑く燃焼し、大時化とも呼べる海を進んでいく。すると何が起きたのか、段々と幻のようなものが見えてきた。肉眼では、土が露出した加計呂麻島の崖、濃紺な海、どんよりとした空や自分のカヤックを見ている。その一方で、もうひとつの目のようなものが過去を走馬灯の様に見つめていたのだ。
<心が浄化されていく>
かつて自分がいちばん裏切り、傷つけ、失望させたであろう人達の姿。また、自分でも一番心に後悔や自責の念をもっていた出来事。なぜあのときあんなことを言ったのか、なぜあのときこうできなかったか…。自分でもなんで今こんなものが見えるのか理解できないまま、浮かんでは鮮明にみえる幻を見つめていた。やがて、わかったよ…、わかったから…とうように、自分の未熟さや至らなさを深く受け入れていった。はからずも悲しませたり怒らせたり、失望させた人々へ、自然と深くお詫びをする気持ちになっていく。。そして自分のなかで止まってしまっていたその問題が動き出し、未熟さに気づかせてくれたことを感謝していった。次第に幻は薄れ、まるで雪が陽に当たるように心の苦しみが溶けて消えていき、暖かい光に照らされているような気分になっていく。不思議とその間も体は必至に漕ぎ続けているのだ。
段々と視界が、肉眼でみているものと一致し始める。そこは、見慣れた大島海峡の入り口だった。ついにたどり着いた奄美大島。旅を始めて24日目の、夕方の事だった。
<夢の始まりの場所へ>
壁のような大波もさすがに海峡に入れば少しは静まっていく。大島に着いた安堵は言葉にならないくらい大きかった。まずはひと休みと思い、ヤドリ浜に向かう。すると、カヤックがみえる。それは今も嘉鉄にある海辺のさんぽ社の、柳澤さんのツアーだった。

たまたま居合わせたカヤックツアーの方と記念撮影。
沖縄からきたといったら飛び上がって驚いていた。
ツアーのお客さんたちと記念撮影をし、本来のゴールに決めていた嘉鉄に向かう。嘉鉄…。カヤックを始めて間もない自分が始めて奄美を訪れたとき、思い出深い時間を過ごした場所。東京の雑踏で生まれ育った人間が、いきなり大島海峡の海のあまりの美しさにしびれてしまった大学時代。シーカヤックマラソンの前後で漕ぎ、泳ぎ、キャンプをし、いつまでもここにいたいと強く心に刻まれた時間だった。そのとき南の島を渡る旅の夢をみて、そしていま、沖縄から漕いできて浮かんでいることが夢のようだった。

ツアーメンバーと別れ、先に嘉鉄にはいる。
夢の始まりの場所への記念すべき帰還の瞬間だった。
次回、最終回「旅の終わりに」
2013年05月20日
南西諸島航海記 徳之島で隠密入出港
2000年7月23日
晴れ 南風 波1.5mのち2m 沖永良部〜徳之島
夜、テントにはいってもしばらく船漕ぎの応援が続いた。やがて静かになり、人が去っていったことを知る。そして港にある水道から水をくませて頂き、翌日にそなえて眠りについた。短めのエアーマット、衣類を入れた防水バッグ(まくら)、以前北海道で、凍える高校生を救った薄いシュラフカバー。これが暑い夏の就寝道具だ。

<毎朝、命があるのは奇跡>
再び早朝から準備。コンビニで買っておいた野菜ジュース、ちょっとづつ飲もうと思っていた。しかし栄養不足だったせいかあまりにも美味しく感じ、1リットルを一気飲みしてしまった。あんなに野菜ジュースが美味しく感じたことはない。
テント泊というのは自由だが、実に脆弱なものでもある。布切れ一枚なのだ。仮に動物や追い剥ぎが襲う気になれば、簡単に破壊され、命を奪われることもある。だから朝、生命があって目をさますと、決まって「今日も奇跡が起きた」ようで嬉しく、ありがたくてたまらなかった。
ネイティブ・アメリカンの古老の言葉を以前本で読んだことがある。彼らは私達が神や仏と呼ぶものを、グレイトスピリットとか、グランドファーザーとか呼んで敬う。そして朝にはこう祈るという。
その日、海に出た後で生きて再び陸に立てるか、どこで夜を過ごすか、誰と会うか、すべてがわからない旅での心の支え。それは私にとってもこういう祈りであり、感謝であった。謙虚な感謝とは、それがある限り、どこかで命綱がつながっているような安心感を与えてくれるものだ。そしてこの日も生命にめいっぱい感謝し、再びカヤックを浮かべ、徳之島をめざして洋上に踊りだす。

和泊港を光がつつみ、カヤックをスポットライトのように照らす。
徳之島へ向けてのスタートだ。

和泊を出てしばらくは沖永良部の沿岸を行く。
岬付近はさすがに潮流がつよく、三角波がたつ。
<航海中の飲水と行動食>
ここで水と行動食について。12時間程度の航海では2リットルのペットボトルを6本、いっぱいに水を入れ、スポーツドリンクの粉を入れる。そのうち飲むのは5本。一本はただの水にしておく。それを座席の後ろのサードハッチに入れる。さらに500mlのペットボトル4本。海上で飲む分はこちらに入れる。この大きさなら、デッキネットに入れてかさばらないからだ。そして500mlの分が空にになれば、サードハッチから2リットルのものを出し、500mlのボトルに再びチャージする。真水でとっておくやつは上陸後にラダーやワイヤーを洗浄、調理、そしてシャワー代わりにする。8時間程度の航海では2リットルを4本と500mlを2本、3時間程度の時は2リットル2本と500ml1本にし、軽量化した。
行動食はエナジーバーと、バナナ、塩飴、それにスポーツ選手がパフォーマンスを持続させるというサプリメントだ。実際効いていたかどうかはわからないが、大した体力もない自分がこんな旅ができたので、効果はあったものと思う。これらをそれぞれ1時間ごとに1つづつ、サプリは着くまでに4回ほど口にする。一時間ごとにバナナの皮を海に捨てていたので、等間隔で浮かんでいたはず。追跡者がいたら逃げられなかっただろう。

日も上にのぼりきれば前方の眩しさは半減する。
時々太陽を覆う雲がありがたく、
突然の土砂降りは最高の恵みだった。
<横断の途中にも天の恵み>
漕ぎ続けて数時間。海のまっただ中、体は暑さを、鼻は潮の香を感じ、目は海と空の青さをみつめる。右と左で交互に上る水しぶき、水の重さを感じる感覚、そして横を通過していくパドルで出来た泡などでカヤックが進んでいることを確認する。晴れ渡り、視界は最高だ。55kmくらいある徳之島もよくみえる。左手、右手とも水平線。巨大な入道雲が立ち並んでいる。そして海のラインにそって雲の下はみんな平たい。あちこちで雲の下から雨が海に降り落ちている「水の柱」がみえる。
ふいにうしろを見ると、低くて暗い雲がものすごい速さでで迫っていた。だんだんと気温がさがり、あっというまに日陰になる。もしかしてと思うと、ざーっと土砂降りの雨が降ってきた。一瞬周りが見えないくらいだ。とたんに頭も体もさっぱりする。海水だらけの海の上で、上をむけば美味しい真水が口に流れてくる。そして最高に涼しくて気持ちがいい! スコールはまさに天からの恵みだ。
亀徳と間違えて亀津に上陸。気がつけばそこは工事途中の港だった。セルフタイマーをセットし、ダッシュでこの姿勢に戻る。当時はデジカメではないのでとれているかどうか現像までわからなかった。それも懐かしい。
<また、ふと水面が気になる>
漕いでも漕いでも近づく気がしない最後の数時間を乗り越え、徳之島の沿岸に近づいた。やはりリーフが広がっていておいそれと海岸には近づけない。するとまたなんでもない水面に目を奪われる。その5秒後ほど、そこに5頭のイルカの群れが現れた! 距離は10mほどだ。今度は近い。興奮して並走していく。ひれはバンドウイルカだろうか。彼らの存在に無意識に気がつくのは与論島でも同じだった。感が鋭くなっているのかもしれない。
<台風6号の接近。そして人知れず奄美へ向かう。>
やがて亀徳港と思われる港を見つけて上陸。なんだか人気がまるでない。後で気がつくのだがそこは亀徳の少し南の亀津という場所。まだ工事中の港だった。スロープにあげ、町へでようとしたらガードレールやカラーコーンで遮られており、「関係者意外立入禁止」だった。でも中から来ちゃったので仕方がないな。
少し歩くと漁協の施設を発見。まるで「暇です」と看板を掲げているようにぼんやり座ったているおじさんたちに話しかけ、やっとここが亀津だと知る。「兄ちゃん、カヌーで旅してんなら魚でもつって持ってきたら買い取るよ!」と言われた。この時私はてんで釣りには疎かったので、こういうチャンスを逃していたのだ。というか、そんな余裕はないのだ横断では。でもいま振り返ると、こんどはそんな楽しみ方もあるなとしみじみ思う。
少し歩いてスーパーをみつけ、フライドチキンとお茶をかって空腹を満たす。そんなボリューム満点のおやつがうれしい。夕飯はとんかつ屋をみつけて迷わず入り、がっつりと定食を堪能。やはりしっかり食べるのは幸せだった。
さて、徳之島ではこれといって誰かに出会うとか、飲み会になったとかはなく、翌朝あっさりと去ってしまう。私が徳之島でやったこと、それはスロープに上陸する、暇そうな漁協の人に話しかける、スーパーでフライドチキンを買って食べる、とんかつ屋で夕飯を食べる、これだけだった。おそらく工事現場の港で人がキャンプしていたなんて誰も知ることなく、いまこのブログを読んでいる方たちが実は最初に知る人かもしれない。まるで隠密行動かゲリラのように、そっと上がってそっと去っていたのだ。なのであまり印象に残っていない。いや、一番何もなかったということでかえって覚えたいたのかもしれない。もっと大きな亀徳に上がっていたら、また違った展開になっていたのだろうか。そんな想像をするのもまた楽しい。

あっという間に去った徳之島で撮影した
数少ない写真のひとつ。雨上がりで虹がかかっている。
実はすぐに去ったのには理由があったことを思い出した。翌日の天気予報だ。南の風、強く、波3m、さらに2日後、南東の風強く、3mのち4m。台風6号が迫っていたのだ。このままでは停滞4日間は必至。旅行の日程も詰まっている。まだ翌日なら間に合う。このとき、あの石垣島の失敗と同じような考えだったとおもわれるでしょう。しかし違っていました。大島海峡へは大きな波があっても入れることを知っていたのです。それともうひとつ。旅で培われた静かな自信、そしてそこへ語りかけてくる直感。それが「大丈夫だ」といっていたのです。
晴れ 南風 波1.5mのち2m 沖永良部〜徳之島
夜、テントにはいってもしばらく船漕ぎの応援が続いた。やがて静かになり、人が去っていったことを知る。そして港にある水道から水をくませて頂き、翌日にそなえて眠りについた。短めのエアーマット、衣類を入れた防水バッグ(まくら)、以前北海道で、凍える高校生を救った薄いシュラフカバー。これが暑い夏の就寝道具だ。

<毎朝、命があるのは奇跡>
再び早朝から準備。コンビニで買っておいた野菜ジュース、ちょっとづつ飲もうと思っていた。しかし栄養不足だったせいかあまりにも美味しく感じ、1リットルを一気飲みしてしまった。あんなに野菜ジュースが美味しく感じたことはない。
テント泊というのは自由だが、実に脆弱なものでもある。布切れ一枚なのだ。仮に動物や追い剥ぎが襲う気になれば、簡単に破壊され、命を奪われることもある。だから朝、生命があって目をさますと、決まって「今日も奇跡が起きた」ようで嬉しく、ありがたくてたまらなかった。
ネイティブ・アメリカンの古老の言葉を以前本で読んだことがある。彼らは私達が神や仏と呼ぶものを、グレイトスピリットとか、グランドファーザーとか呼んで敬う。そして朝にはこう祈るという。
「グランドファーザー、今日も命ある新しき朝をありがとうございます。」
その日、海に出た後で生きて再び陸に立てるか、どこで夜を過ごすか、誰と会うか、すべてがわからない旅での心の支え。それは私にとってもこういう祈りであり、感謝であった。謙虚な感謝とは、それがある限り、どこかで命綱がつながっているような安心感を与えてくれるものだ。そしてこの日も生命にめいっぱい感謝し、再びカヤックを浮かべ、徳之島をめざして洋上に踊りだす。

和泊港を光がつつみ、カヤックをスポットライトのように照らす。
徳之島へ向けてのスタートだ。

和泊を出てしばらくは沖永良部の沿岸を行く。
岬付近はさすがに潮流がつよく、三角波がたつ。
<航海中の飲水と行動食>
ここで水と行動食について。12時間程度の航海では2リットルのペットボトルを6本、いっぱいに水を入れ、スポーツドリンクの粉を入れる。そのうち飲むのは5本。一本はただの水にしておく。それを座席の後ろのサードハッチに入れる。さらに500mlのペットボトル4本。海上で飲む分はこちらに入れる。この大きさなら、デッキネットに入れてかさばらないからだ。そして500mlの分が空にになれば、サードハッチから2リットルのものを出し、500mlのボトルに再びチャージする。真水でとっておくやつは上陸後にラダーやワイヤーを洗浄、調理、そしてシャワー代わりにする。8時間程度の航海では2リットルを4本と500mlを2本、3時間程度の時は2リットル2本と500ml1本にし、軽量化した。
行動食はエナジーバーと、バナナ、塩飴、それにスポーツ選手がパフォーマンスを持続させるというサプリメントだ。実際効いていたかどうかはわからないが、大した体力もない自分がこんな旅ができたので、効果はあったものと思う。これらをそれぞれ1時間ごとに1つづつ、サプリは着くまでに4回ほど口にする。一時間ごとにバナナの皮を海に捨てていたので、等間隔で浮かんでいたはず。追跡者がいたら逃げられなかっただろう。

日も上にのぼりきれば前方の眩しさは半減する。
時々太陽を覆う雲がありがたく、
突然の土砂降りは最高の恵みだった。
<横断の途中にも天の恵み>
漕ぎ続けて数時間。海のまっただ中、体は暑さを、鼻は潮の香を感じ、目は海と空の青さをみつめる。右と左で交互に上る水しぶき、水の重さを感じる感覚、そして横を通過していくパドルで出来た泡などでカヤックが進んでいることを確認する。晴れ渡り、視界は最高だ。55kmくらいある徳之島もよくみえる。左手、右手とも水平線。巨大な入道雲が立ち並んでいる。そして海のラインにそって雲の下はみんな平たい。あちこちで雲の下から雨が海に降り落ちている「水の柱」がみえる。
ふいにうしろを見ると、低くて暗い雲がものすごい速さでで迫っていた。だんだんと気温がさがり、あっというまに日陰になる。もしかしてと思うと、ざーっと土砂降りの雨が降ってきた。一瞬周りが見えないくらいだ。とたんに頭も体もさっぱりする。海水だらけの海の上で、上をむけば美味しい真水が口に流れてくる。そして最高に涼しくて気持ちがいい! スコールはまさに天からの恵みだ。

<また、ふと水面が気になる>
漕いでも漕いでも近づく気がしない最後の数時間を乗り越え、徳之島の沿岸に近づいた。やはりリーフが広がっていておいそれと海岸には近づけない。するとまたなんでもない水面に目を奪われる。その5秒後ほど、そこに5頭のイルカの群れが現れた! 距離は10mほどだ。今度は近い。興奮して並走していく。ひれはバンドウイルカだろうか。彼らの存在に無意識に気がつくのは与論島でも同じだった。感が鋭くなっているのかもしれない。
<台風6号の接近。そして人知れず奄美へ向かう。>
やがて亀徳港と思われる港を見つけて上陸。なんだか人気がまるでない。後で気がつくのだがそこは亀徳の少し南の亀津という場所。まだ工事中の港だった。スロープにあげ、町へでようとしたらガードレールやカラーコーンで遮られており、「関係者意外立入禁止」だった。でも中から来ちゃったので仕方がないな。
少し歩くと漁協の施設を発見。まるで「暇です」と看板を掲げているようにぼんやり座ったているおじさんたちに話しかけ、やっとここが亀津だと知る。「兄ちゃん、カヌーで旅してんなら魚でもつって持ってきたら買い取るよ!」と言われた。この時私はてんで釣りには疎かったので、こういうチャンスを逃していたのだ。というか、そんな余裕はないのだ横断では。でもいま振り返ると、こんどはそんな楽しみ方もあるなとしみじみ思う。
少し歩いてスーパーをみつけ、フライドチキンとお茶をかって空腹を満たす。そんなボリューム満点のおやつがうれしい。夕飯はとんかつ屋をみつけて迷わず入り、がっつりと定食を堪能。やはりしっかり食べるのは幸せだった。
さて、徳之島ではこれといって誰かに出会うとか、飲み会になったとかはなく、翌朝あっさりと去ってしまう。私が徳之島でやったこと、それはスロープに上陸する、暇そうな漁協の人に話しかける、スーパーでフライドチキンを買って食べる、とんかつ屋で夕飯を食べる、これだけだった。おそらく工事現場の港で人がキャンプしていたなんて誰も知ることなく、いまこのブログを読んでいる方たちが実は最初に知る人かもしれない。まるで隠密行動かゲリラのように、そっと上がってそっと去っていたのだ。なのであまり印象に残っていない。いや、一番何もなかったということでかえって覚えたいたのかもしれない。もっと大きな亀徳に上がっていたら、また違った展開になっていたのだろうか。そんな想像をするのもまた楽しい。

あっという間に去った徳之島で撮影した
数少ない写真のひとつ。雨上がりで虹がかかっている。
実はすぐに去ったのには理由があったことを思い出した。翌日の天気予報だ。南の風、強く、波3m、さらに2日後、南東の風強く、3mのち4m。台風6号が迫っていたのだ。このままでは停滞4日間は必至。旅行の日程も詰まっている。まだ翌日なら間に合う。このとき、あの石垣島の失敗と同じような考えだったとおもわれるでしょう。しかし違っていました。大島海峡へは大きな波があっても入れることを知っていたのです。それともうひとつ。旅で培われた静かな自信、そしてそこへ語りかけてくる直感。それが「大丈夫だ」といっていたのです。
2013年05月18日
南西諸島航海記 和泊の出会い
2000年7月22日 知名から和泊へ
知名についてお風呂でリフレッシュし、居酒屋に駆け込んだ。そしておいしい刺身定食を頂く。自分でつくって食べるのもひとつのスタイルだが、地元の店や宿に入り、その島の人達と話をするのも楽しみのひとつだった。
<メンテナンスさぼり、しっぺ返し>
そして翌日(22日)、徳之島へ向かう気満々で早起き。朝ごはんの調理を始める。が、携帯ストーブが壊れて火がつかない。公園や港でおいそれと焚き火もできない。う〜む、無人の海岸でのキャンプは不便だが不自由でなく、人里は心強く便利だが不自由な点もあるものだ。使っていたストーブはMSRのドラゴンフライ。ポンプをシャコシャコしてガスを圧縮し、それでガソリンを吹き出して火をつけるタイプだ。そのポンプがすかすかになり、圧がかからなくなってしまった。この場合、ポンプの筒を明け、オイルを差すのだ。それをわからずに焦ってあれこれいじりまわし、最後には友人に電話をしてやっと理解した。旅の友である大切な道具。日頃からメンテナンスは大切であると教えられる。
<沖永良部のカメはひとなつこい?>
どうにか故障は治ったときにはもう午前8時。日は暑く、すっかりやる気がなくなっていた。そこで予定変更し、和泊へ向かう。知名から和泊へはリーフが広がっているためにやや沖を通る。その間、多くの海亀と遭遇。奄美で海亀を見つけた時、遠くで「あっ!」なんて声を出しただけで逃げてしまう。また、20mくらい離れていても、こっちをみるとすぐに潜ってしまう。だが沖永良部のカメはなかなか逃げようともしない。中にはあとちょっとでパドルでつつけるくらいの距離までのんびりしている奴もいた。人間への警戒心があまりないようだ。
やがて和泊の港へ入る。和泊は知名よりさらに大きな港。船舶に注意しながら堤防沿いに張り付いて進む。港の中は右側通行が船舶のルールだ。シーカヤックも船舶として法の枠組みに入ることを忘れてはいけない。しかし奥深い和泊港。入り口らしき場所から15分くらいかけてようやく小さなスロープにたどり着いた。この日はもうのんびりとすごす事にする。

こんどは和泊にて
<笠石公園の出会い>
那覇で沖縄カヤックセンターによったとき、仲村さんから沖永良部についたら「キャンプ場のご主人を訪ねるといいよ」と言われていたことを思い出す。確か和泊だった。そこで道行く人達に尋ねながら、えっちらおっちら和泊の町を歩いていった。沖縄県漁船組合帽子、漁協で買った緑のネット(玉ネギネットからバージョンアップ)、そして便所サンダルスタイルである。バスでも乗ればいいものを、と思うでしょう。しかしふらり歩くことも大切なのです。なんせ毎日船の中にある足は、どんどん筋力が落ちていく。歩くことが新鮮で仕方ない。30分も歩いただろうか、やがて「笠石公園」にたどり着く。

笠石公園ににて。和泊港から歩いてきた。
<数日いれば別れも淋しい>
笠石公園キャンプ場のご主人はすぐに会うことが出来た。事情を話すとそれはそれは大変歓迎してくださり、コーヒーをごちそうになりながら時間の立つのも忘れてしまう程だった。カヤックセンターの仲村さんは、以前那覇から奄美まで数人で漕いでいった。そのとき沖永良部島で海が荒れ、この笠石海岸で数日停滞したのだ。そのときこちらのご主人にお世話になったらしい。そして海が鎮まり、数日楽しく一緒にすごした仲村さん達が再び出発する時がくる。ご主人は言った。「数日いっしょにいると情が移るもんでね。みんなが船出していくのをみていたら、淋しくなって涙がでそうだったよ」と。私はすっかり聞き入ってしまった。仲村さんたちはさぞ楽しく過ごしていただろうことが目に浮かぶ。

お世話になった笠石キャンプ場のご主人(真ん中)。
私よりご主人の方が話に夢中だった。
そして夕方になりキャンプ場を後にする。再び南の海からカヤックで渡ってきた若者が現れ、ご主人は本当に嬉しそうだった。おみやげに売店のおつまみまで頂いてしまった。美味しいコーヒーともども、ありがとうございました。
<エラブの神様?>
夕方港にもどると、カヤックの側でひとりの老人が漁具をいじっていた。挨拶すると会話が弾む。八重山の海人を思い出させる見事な日焼け、そして海での歴戦の日々を物語るような見事なシワの数々。なんでもその方は「エラブの神様」と呼ばれているんだとか。例えば海で遭難事故が起こり、警察やダイバーが捜索にあたる。そのとき必ずこの「エラブの神様」に相談がくるのだそうだ。そして潮の流れ、人が行方不明になった地点や天候などから、いつも老人が予測するドンピシャの場所で遺体がみつかるという。やがて老人は私のカヤックをしげしげと見つめた。このとき、満潮のラインからさらに5mくらいは引き上げていた。用心のためだ。ところが老人は、「万一のため」といってさらに上にあるフックに、ロープでつないでくれたのだ。「船がなくなっちまったらどうしようもねえからな」と、にやっと粋な笑顔で言った。神様かどうかは別として、この用心深さには恐れいった。海を熟知している方ほど、こうなのかもしれない。

お祭りが近いのか、港では船漕ぎの練習をしていた。
よく見ると10人乗っているが大丈夫か?
そして堤防には応援団が大勢いてにぎやかだ。
<食べることの大切さを思い出す>
夕飯時になり、どこかで食べようと中華料理屋をみつけてはいる。そこで大盛り肉野菜炒めを頂いた。それがなんという幸福な気持ちになったことか。これまで簡単な食事と栄養補助食品でまかなってきた。栄養的には不足は無いはずだった。しかし、錠剤になったものをただ飲んで栄養だけ補っても、けっして満たされないものだ。何よりも食べる悦びが満たされない。おいしそうな料理を目で見る、臭いを嗅ぐ、口にいれて味わう、かむ、飲み込む、胃に入る一連の感覚を味わうこと。この全てを含めて「食べる」という大切な事なのだと実感。栄養の数値では総合サプリメントの方が上かもしれない。しかしこの時の大盛り野菜炒め定食は、比にならないほど幸せな気持ちで心身を満たしてくれのだ。

夕方、港で魚をさばくご夫婦。
生活感満点の姿にたまらずシャッター切る。

徳之島への距離、方位を再確認。
いつもテントで寝るときは、夕方6時にはもう横になっていた。朝が早いし疲れているからだ。しかし船漕ぎの応援団がすぐ横で、7時近くまで鍋か何かを叩いて応援していて寝ているどころじゃない。もうあきらめてテントからでることにし、いっしょに練習を眺めていた。
いよいよ旅の終わりも間近にせまった、夏の夕方の出来事だった。
知名についてお風呂でリフレッシュし、居酒屋に駆け込んだ。そしておいしい刺身定食を頂く。自分でつくって食べるのもひとつのスタイルだが、地元の店や宿に入り、その島の人達と話をするのも楽しみのひとつだった。
<メンテナンスさぼり、しっぺ返し>
そして翌日(22日)、徳之島へ向かう気満々で早起き。朝ごはんの調理を始める。が、携帯ストーブが壊れて火がつかない。公園や港でおいそれと焚き火もできない。う〜む、無人の海岸でのキャンプは不便だが不自由でなく、人里は心強く便利だが不自由な点もあるものだ。使っていたストーブはMSRのドラゴンフライ。ポンプをシャコシャコしてガスを圧縮し、それでガソリンを吹き出して火をつけるタイプだ。そのポンプがすかすかになり、圧がかからなくなってしまった。この場合、ポンプの筒を明け、オイルを差すのだ。それをわからずに焦ってあれこれいじりまわし、最後には友人に電話をしてやっと理解した。旅の友である大切な道具。日頃からメンテナンスは大切であると教えられる。
<沖永良部のカメはひとなつこい?>
どうにか故障は治ったときにはもう午前8時。日は暑く、すっかりやる気がなくなっていた。そこで予定変更し、和泊へ向かう。知名から和泊へはリーフが広がっているためにやや沖を通る。その間、多くの海亀と遭遇。奄美で海亀を見つけた時、遠くで「あっ!」なんて声を出しただけで逃げてしまう。また、20mくらい離れていても、こっちをみるとすぐに潜ってしまう。だが沖永良部のカメはなかなか逃げようともしない。中にはあとちょっとでパドルでつつけるくらいの距離までのんびりしている奴もいた。人間への警戒心があまりないようだ。
やがて和泊の港へ入る。和泊は知名よりさらに大きな港。船舶に注意しながら堤防沿いに張り付いて進む。港の中は右側通行が船舶のルールだ。シーカヤックも船舶として法の枠組みに入ることを忘れてはいけない。しかし奥深い和泊港。入り口らしき場所から15分くらいかけてようやく小さなスロープにたどり着いた。この日はもうのんびりとすごす事にする。

こんどは和泊にて
<笠石公園の出会い>
那覇で沖縄カヤックセンターによったとき、仲村さんから沖永良部についたら「キャンプ場のご主人を訪ねるといいよ」と言われていたことを思い出す。確か和泊だった。そこで道行く人達に尋ねながら、えっちらおっちら和泊の町を歩いていった。沖縄県漁船組合帽子、漁協で買った緑のネット(玉ネギネットからバージョンアップ)、そして便所サンダルスタイルである。バスでも乗ればいいものを、と思うでしょう。しかしふらり歩くことも大切なのです。なんせ毎日船の中にある足は、どんどん筋力が落ちていく。歩くことが新鮮で仕方ない。30分も歩いただろうか、やがて「笠石公園」にたどり着く。

笠石公園ににて。和泊港から歩いてきた。
<数日いれば別れも淋しい>
笠石公園キャンプ場のご主人はすぐに会うことが出来た。事情を話すとそれはそれは大変歓迎してくださり、コーヒーをごちそうになりながら時間の立つのも忘れてしまう程だった。カヤックセンターの仲村さんは、以前那覇から奄美まで数人で漕いでいった。そのとき沖永良部島で海が荒れ、この笠石海岸で数日停滞したのだ。そのときこちらのご主人にお世話になったらしい。そして海が鎮まり、数日楽しく一緒にすごした仲村さん達が再び出発する時がくる。ご主人は言った。「数日いっしょにいると情が移るもんでね。みんなが船出していくのをみていたら、淋しくなって涙がでそうだったよ」と。私はすっかり聞き入ってしまった。仲村さんたちはさぞ楽しく過ごしていただろうことが目に浮かぶ。

お世話になった笠石キャンプ場のご主人(真ん中)。
私よりご主人の方が話に夢中だった。
そして夕方になりキャンプ場を後にする。再び南の海からカヤックで渡ってきた若者が現れ、ご主人は本当に嬉しそうだった。おみやげに売店のおつまみまで頂いてしまった。美味しいコーヒーともども、ありがとうございました。
<エラブの神様?>
夕方港にもどると、カヤックの側でひとりの老人が漁具をいじっていた。挨拶すると会話が弾む。八重山の海人を思い出させる見事な日焼け、そして海での歴戦の日々を物語るような見事なシワの数々。なんでもその方は「エラブの神様」と呼ばれているんだとか。例えば海で遭難事故が起こり、警察やダイバーが捜索にあたる。そのとき必ずこの「エラブの神様」に相談がくるのだそうだ。そして潮の流れ、人が行方不明になった地点や天候などから、いつも老人が予測するドンピシャの場所で遺体がみつかるという。やがて老人は私のカヤックをしげしげと見つめた。このとき、満潮のラインからさらに5mくらいは引き上げていた。用心のためだ。ところが老人は、「万一のため」といってさらに上にあるフックに、ロープでつないでくれたのだ。「船がなくなっちまったらどうしようもねえからな」と、にやっと粋な笑顔で言った。神様かどうかは別として、この用心深さには恐れいった。海を熟知している方ほど、こうなのかもしれない。

お祭りが近いのか、港では船漕ぎの練習をしていた。
よく見ると10人乗っているが大丈夫か?
そして堤防には応援団が大勢いてにぎやかだ。
<食べることの大切さを思い出す>
夕飯時になり、どこかで食べようと中華料理屋をみつけてはいる。そこで大盛り肉野菜炒めを頂いた。それがなんという幸福な気持ちになったことか。これまで簡単な食事と栄養補助食品でまかなってきた。栄養的には不足は無いはずだった。しかし、錠剤になったものをただ飲んで栄養だけ補っても、けっして満たされないものだ。何よりも食べる悦びが満たされない。おいしそうな料理を目で見る、臭いを嗅ぐ、口にいれて味わう、かむ、飲み込む、胃に入る一連の感覚を味わうこと。この全てを含めて「食べる」という大切な事なのだと実感。栄養の数値では総合サプリメントの方が上かもしれない。しかしこの時の大盛り野菜炒め定食は、比にならないほど幸せな気持ちで心身を満たしてくれのだ。

夕方、港で魚をさばくご夫婦。
生活感満点の姿にたまらずシャッター切る。

徳之島への距離、方位を再確認。
いつもテントで寝るときは、夕方6時にはもう横になっていた。朝が早いし疲れているからだ。しかし船漕ぎの応援団がすぐ横で、7時近くまで鍋か何かを叩いて応援していて寝ているどころじゃない。もうあきらめてテントからでることにし、いっしょに練習を眺めていた。
いよいよ旅の終わりも間近にせまった、夏の夕方の出来事だった。
2013年05月17日
南西諸島航海記 霧に浮かぶ沖永良部島
2000年7月21日 与論島〜沖永良部島 島影はまったくみえない
気力、体力が再び充実した私は、早朝5:00にカヤックのパッキングにかかった。真っ暗で星が美しい。宿で知り合ったジャーナリストの女性が、早朝にも関わらず見送り(見物?)にきてくれた。彼女はこの日、同じように徳之島へいくという。「犬と人との関わり」を取材し、奄美群島を渡っていたのだ。もしも徳之島でも偶然あったら、また声をかけてくださいなどと挨拶し、空が白んできた茶花を出航した。なんだかいつも誰かが傍らにいてくれる。

南西諸島の夏は早朝出発につきる。
涼しくて気持ちがいいうちに距離をかせぐのだ。

与論島最北の岬から太陽が登る。
もやがかかり、あまり眩しくない。
<島影はまったくみえない>
水平線はもやがかかり、沖永良部島はまったくみえない。ぼんやりとした白い視界がひろがる。コンパス、太陽、かすかな波がカヤックに当たる角度などで方位を測り、進んでいく。島が見えているときは、ただそこに向かうのみ。これといった難しいナビゲーションはいらない。だが見えているのになかなか近づかいないというもどかしさを感じてしまう。逆に見えないと、それはそれで漕ぐことに集中できる。不安? それはない。なぜなら、どんな時も、何があっても大丈夫という信念をもつようにこころがけていたからだ。信念は心を鎮め、鎮まったこころには見えない導きが常に働きかけてくる。旅をしながら、次第にこんな気持になっていた。そしてこの日も、胸騒ぎの警告なし。猛進あるのみ。

こんなときはひたすら無心に漕いでいく。
<推測航法>
ナビゲーションのひとつに、推測航法というものがある。視界が効かないときに用いる方法だ。以前本で読んだことがあるが、実際に試したことはなかった。そしてこの日、いつやるの? いまでしょ! とばかりにその時がやってきた。
この航法には、把握しておかなければならないものがいくつかある。それは、現在位置、自分の平均速度、そして時間の経過だ。現在位置はいうまでもない。自分が何処にいるかわからないのに、どのくらい目的地に進んだかが計れるはずもない。そして速度。これは日頃からのデータの積み重ね。あのときあの距離を何時間かかったとか、あの風のなかで何時間かかかったとか、それこそいろんな状況を漕いで記録を蓄積していくことで、やがて感覚的にわかってくる。時間の経過、これはもう時計に頼る。何時に出発し、何時間後に何分休憩したかなどを常に気に留めておく。 この要素を揃えれば、概ねどの地点まで進んでいるかがわかるというのが推測航法の前提だ。 すでにお分かりの通り、随分前にGPSは壊れていた。なので完全にこれらの感覚を頼りに、沖永良部島をめざしていった。
<いつ島がみえてくるか>
1時間がたって、10分程休憩した。後方の与論島はまだはっきり、かなりの大きさで見えている。2時間目の休憩。また10分程。振り返る。やや霞んできたが、まだはっきり見える。大きさは先程よりもだいぶ小さい。やがて3時間目の休憩をしたとき、もう後方には霞んだ水平線しか見えなくなった。この日、9時間程度の時間がかかると予想していた。それは自分の日頃のスピードと、計測した距離からの判断だ。休憩中、ふと気がついた。約3時間30分で与論島が消えた。ということは、残りあと3時間30分程度の距離に達したとき、沖永良部島の影が見え始めるだろうと。島影はあと3時間くらいは絶対にみえない。そしてその間は一切余計なことは気にせずに、ただ進んでいけばいいのだ。ものすごく気が楽になった。
その後も一時間ごとに10分程度の休憩を続けた。そして与論島を出発して約6時間が経った。そろそろ島が見えてもいい。それまでは無心だったが、このあたりから前方に目を凝らしながら進む。しかし見えない。また進んでいく。見えるはずが、なかなか見えない。少し疑心暗鬼になる。
やがて予想していた時間から1時間ほどたって、うっすらと島影が靄の中に現れた。与論島のように低い島影を探していたが、以外にも高い影に驚く。しかし間違いない、それは沖永良部島だった。こうして島が見えない航海は無事に終わった。疲れた後半ほど長く休んでいたため、予想よりも進んでいなかったのだ。


推測航法の一例。後方の島が見えなくなるのにかかった時間を計り、前方の島が見えてくる時間を予想する。予測時間10時間のとき、3時間でA島が見えなくなった場合、その後4時間は前方にも見えない。残り約3時間地点(合計で7時間前進している場合)になってやっと島が見えると判断する。ま、だいたいちょっとずれますけどね
。

知名漁港に上陸。静かだった。

漁港で遊んでいた中学生らしき若者たち。
カメラを向けたら照れていたが、
「この写真は東京で旅の報告会に使う」といったら喜んでポーズをとってくれた。
あれから13年。いまではいい大人になっているだろう。
体調がよかったといってもやはり10時間海の上ではかなり疲労する。丘の上のホテルでゴージャスなお風呂に入り、最高にリフレッシュ!! 漁港脇の公園でテント泊。この日もよく渡った。
気力、体力が再び充実した私は、早朝5:00にカヤックのパッキングにかかった。真っ暗で星が美しい。宿で知り合ったジャーナリストの女性が、早朝にも関わらず見送り(見物?)にきてくれた。彼女はこの日、同じように徳之島へいくという。「犬と人との関わり」を取材し、奄美群島を渡っていたのだ。もしも徳之島でも偶然あったら、また声をかけてくださいなどと挨拶し、空が白んできた茶花を出航した。なんだかいつも誰かが傍らにいてくれる。

南西諸島の夏は早朝出発につきる。
涼しくて気持ちがいいうちに距離をかせぐのだ。

与論島最北の岬から太陽が登る。
もやがかかり、あまり眩しくない。
<島影はまったくみえない>
水平線はもやがかかり、沖永良部島はまったくみえない。ぼんやりとした白い視界がひろがる。コンパス、太陽、かすかな波がカヤックに当たる角度などで方位を測り、進んでいく。島が見えているときは、ただそこに向かうのみ。これといった難しいナビゲーションはいらない。だが見えているのになかなか近づかいないというもどかしさを感じてしまう。逆に見えないと、それはそれで漕ぐことに集中できる。不安? それはない。なぜなら、どんな時も、何があっても大丈夫という信念をもつようにこころがけていたからだ。信念は心を鎮め、鎮まったこころには見えない導きが常に働きかけてくる。旅をしながら、次第にこんな気持になっていた。そしてこの日も、胸騒ぎの警告なし。猛進あるのみ。

こんなときはひたすら無心に漕いでいく。
<推測航法>
ナビゲーションのひとつに、推測航法というものがある。視界が効かないときに用いる方法だ。以前本で読んだことがあるが、実際に試したことはなかった。そしてこの日、いつやるの? いまでしょ! とばかりにその時がやってきた。
この航法には、把握しておかなければならないものがいくつかある。それは、現在位置、自分の平均速度、そして時間の経過だ。現在位置はいうまでもない。自分が何処にいるかわからないのに、どのくらい目的地に進んだかが計れるはずもない。そして速度。これは日頃からのデータの積み重ね。あのときあの距離を何時間かかったとか、あの風のなかで何時間かかかったとか、それこそいろんな状況を漕いで記録を蓄積していくことで、やがて感覚的にわかってくる。時間の経過、これはもう時計に頼る。何時に出発し、何時間後に何分休憩したかなどを常に気に留めておく。 この要素を揃えれば、概ねどの地点まで進んでいるかがわかるというのが推測航法の前提だ。 すでにお分かりの通り、随分前にGPSは壊れていた。なので完全にこれらの感覚を頼りに、沖永良部島をめざしていった。
<いつ島がみえてくるか>
1時間がたって、10分程休憩した。後方の与論島はまだはっきり、かなりの大きさで見えている。2時間目の休憩。また10分程。振り返る。やや霞んできたが、まだはっきり見える。大きさは先程よりもだいぶ小さい。やがて3時間目の休憩をしたとき、もう後方には霞んだ水平線しか見えなくなった。この日、9時間程度の時間がかかると予想していた。それは自分の日頃のスピードと、計測した距離からの判断だ。休憩中、ふと気がついた。約3時間30分で与論島が消えた。ということは、残りあと3時間30分程度の距離に達したとき、沖永良部島の影が見え始めるだろうと。島影はあと3時間くらいは絶対にみえない。そしてその間は一切余計なことは気にせずに、ただ進んでいけばいいのだ。ものすごく気が楽になった。
その後も一時間ごとに10分程度の休憩を続けた。そして与論島を出発して約6時間が経った。そろそろ島が見えてもいい。それまでは無心だったが、このあたりから前方に目を凝らしながら進む。しかし見えない。また進んでいく。見えるはずが、なかなか見えない。少し疑心暗鬼になる。
やがて予想していた時間から1時間ほどたって、うっすらと島影が靄の中に現れた。与論島のように低い島影を探していたが、以外にも高い影に驚く。しかし間違いない、それは沖永良部島だった。こうして島が見えない航海は無事に終わった。疲れた後半ほど長く休んでいたため、予想よりも進んでいなかったのだ。


推測航法の一例。後方の島が見えなくなるのにかかった時間を計り、前方の島が見えてくる時間を予想する。予測時間10時間のとき、3時間でA島が見えなくなった場合、その後4時間は前方にも見えない。残り約3時間地点(合計で7時間前進している場合)になってやっと島が見えると判断する。ま、だいたいちょっとずれますけどね


知名漁港に上陸。静かだった。

漁港で遊んでいた中学生らしき若者たち。
カメラを向けたら照れていたが、
「この写真は東京で旅の報告会に使う」といったら喜んでポーズをとってくれた。
あれから13年。いまではいい大人になっているだろう。
体調がよかったといってもやはり10時間海の上ではかなり疲労する。丘の上のホテルでゴージャスなお風呂に入り、最高にリフレッシュ!! 漁港脇の公園でテント泊。この日もよく渡った。
2013年05月16日
南西諸島航海記 与論島でしばし休養
2000年7月19日〜21日
与論島で停滞
<熱発し民宿にかけこむ>
港の横の浜だったので、リーフでの座礁の心配なく海岸に上陸。重い体に鞭打ってカヤックを引き上げる。調理する気力もなかったので、港近くの郷土料理屋にて昼食。ひとまず落ち着く。海岸にもどってから、体温計で熱を計る(用心で救急パックにいれてきた)。すると38度近い熱があった。ここで一気に疲れがでたようだ。おまけに左足がおかしい。歩くだけで痛い。むくんでいるのだろう。普通大人の足は血管や筋が多少は浮き出ているが、まるで赤ちゃんの足のようにぷっくり膨らんでいる。5mmくらい押してへこますことができた。ああ、もう異常だ。無理せず何処かに泊まろうと決意。「南海荘」という民宿にお世話になることに。


お世話になった南海荘。いまも健在です。
<与論病院にて医師に失望する>
念のため宿のおばさんに病院を教えてもらい、痛い足を引きずりながら歩いて行く。与論病院だ。いまは与論徳洲会病院。??。前からだったか後から徳州会になったかはっきりしない。そこで医師に腫れた左足を見せ、体の症状を説明。が、診断は「ただの日焼け」だった。はあ??。日焼け?。それはないでしょ、いくらなんでも。だって足は一日中カヤックの中。もし日焼けなら右足ももっと異常があるはず。右足はなんともない。それに顔や上半身のほうが海上ではるかに日に晒されているのだ。よりによって日焼けですか。疑問をぶつけると「いや、この前もそういう方がいましたから」と、また日焼け論を固持。もうあきれて何も言えない。「とりあえず冷やすクリーム、出しておきます」。……。
この人に何を聞いてもだめだと思い、腑に落ちない気分で病院を後にした。那覇の居酒屋で、マスターのおっちゃんが言っていた言葉を思い出す。「医者に命をあずけちゃいかん」。まったくこの時はしみじみ同感だった。
<海に行く者はお酢をもて>
夜、宿でおばちゃんに足をみせ、症状を話してみたら「それは海の生き物の毒」にやられた症状ではないかということだった。そしてお酢をかけてくれた。昔から海にいくものはお酢を必ずもっていくのだという。私は、おばちゃんの言葉の方がはるかにこの状態を理解してくれていると感じ、感激。日焼けなわけがない。海がわからないい医師より、海を知る民宿のおばちゃんの方が格段に心強い。
そして那覇の大城さんにも連絡。すると「ウンバチイソギンチャク」にさされたものではないかと、これまたかなり重要なコメント。浅いリーフのなか(沖縄ではイノーという)などにいて、そんなところを歩いていると、たまにやられるそうだ。大城さんも以前にさされ、散々な痛みを味わったらしい。浅いリーフ…。心当たりがある。そういえば、奥のビーチで泳ぐ時、ドロップオフまで浅いリーフを歩いた。フィンを履いていると倒れそうなので、素足でリーフの中を歩いていたのだ。その深さはふくらはぎの真ん中程度。よくみると確かに左足のくるぶし辺りに、赤い腫れ物のようなものがある。さされた後だろうか。

容疑者のウンバチイソギンチャクさん。
こんなの足元にいてもわかりません。
「もしも酷くなるようなら、迎えに行くからフェリーで那覇まで移動して、海洋危険生物専門医のところへ連れて行く」とまで言ってくれた。実は辺土名で会った時、大城さんは友人を連れていた。その人は日本でもトップクラスの、海洋危険生物専門医の助手なのだという。そして医師の直通の電話番号まで教えてもらった。まったく頼もしい先輩の手本のような人だ。頭がさがる以外に言葉がみつからない。


美しい与論島。思い返すと懐かしいできごとだ。
こうして与論島でたっぷりと休養をとる。栄養のある海鮮料理を頂き、安眠できる畳と布団で眠ってみるみるうちに回復。やがて左足も筋や血管が見えるほど通常に近い状態になった。停滞3日目の夕方、もうカヤックのペダルを踏んでも痛みが殆ど無いので、天気もよく翌日には出港することに。お世話になった南海荘のおじさんとおばさん、そして遠方から暖かいサポートをしてくれた大城さんに心から感謝。お酢も装備に入れる。無防備にリーフ内を歩かないことも肝に銘じる。
<要注意!!>
今振り返れば実は怖いことをしていた。ウンバチイソギンチャクにやられたときはお酢をかけてはいけないのだ。お酢がきくのはハブクラゲなど、アンドンクラゲ科とよばれるもの。ウンバチイソギンチャクにさされて刺胞が患部に残っている場合、お酢でかえって毒の発射を促してしまうから禁物なのである。水で洗い、それこそ専門医に刺胞をとって貰う必要があるとのこと。あのときお酢をかけても問題がなかったのは、非常に軽い触れ方をして、刺胞がさされた場所に残っていなかったか、もしくは単に重度の疲労による症状だったかだと思う。
さあ、次は沖永良部島が待っている。
与論島で停滞
<熱発し民宿にかけこむ>
港の横の浜だったので、リーフでの座礁の心配なく海岸に上陸。重い体に鞭打ってカヤックを引き上げる。調理する気力もなかったので、港近くの郷土料理屋にて昼食。ひとまず落ち着く。海岸にもどってから、体温計で熱を計る(用心で救急パックにいれてきた)。すると38度近い熱があった。ここで一気に疲れがでたようだ。おまけに左足がおかしい。歩くだけで痛い。むくんでいるのだろう。普通大人の足は血管や筋が多少は浮き出ているが、まるで赤ちゃんの足のようにぷっくり膨らんでいる。5mmくらい押してへこますことができた。ああ、もう異常だ。無理せず何処かに泊まろうと決意。「南海荘」という民宿にお世話になることに。


お世話になった南海荘。いまも健在です。
<与論病院にて医師に失望する>
念のため宿のおばさんに病院を教えてもらい、痛い足を引きずりながら歩いて行く。与論病院だ。いまは与論徳洲会病院。??。前からだったか後から徳州会になったかはっきりしない。そこで医師に腫れた左足を見せ、体の症状を説明。が、診断は「ただの日焼け」だった。はあ??。日焼け?。それはないでしょ、いくらなんでも。だって足は一日中カヤックの中。もし日焼けなら右足ももっと異常があるはず。右足はなんともない。それに顔や上半身のほうが海上ではるかに日に晒されているのだ。よりによって日焼けですか。疑問をぶつけると「いや、この前もそういう方がいましたから」と、また日焼け論を固持。もうあきれて何も言えない。「とりあえず冷やすクリーム、出しておきます」。……。
この人に何を聞いてもだめだと思い、腑に落ちない気分で病院を後にした。那覇の居酒屋で、マスターのおっちゃんが言っていた言葉を思い出す。「医者に命をあずけちゃいかん」。まったくこの時はしみじみ同感だった。
<海に行く者はお酢をもて>
夜、宿でおばちゃんに足をみせ、症状を話してみたら「それは海の生き物の毒」にやられた症状ではないかということだった。そしてお酢をかけてくれた。昔から海にいくものはお酢を必ずもっていくのだという。私は、おばちゃんの言葉の方がはるかにこの状態を理解してくれていると感じ、感激。日焼けなわけがない。海がわからないい医師より、海を知る民宿のおばちゃんの方が格段に心強い。
そして那覇の大城さんにも連絡。すると「ウンバチイソギンチャク」にさされたものではないかと、これまたかなり重要なコメント。浅いリーフのなか(沖縄ではイノーという)などにいて、そんなところを歩いていると、たまにやられるそうだ。大城さんも以前にさされ、散々な痛みを味わったらしい。浅いリーフ…。心当たりがある。そういえば、奥のビーチで泳ぐ時、ドロップオフまで浅いリーフを歩いた。フィンを履いていると倒れそうなので、素足でリーフの中を歩いていたのだ。その深さはふくらはぎの真ん中程度。よくみると確かに左足のくるぶし辺りに、赤い腫れ物のようなものがある。さされた後だろうか。

容疑者のウンバチイソギンチャクさん。
こんなの足元にいてもわかりません。
「もしも酷くなるようなら、迎えに行くからフェリーで那覇まで移動して、海洋危険生物専門医のところへ連れて行く」とまで言ってくれた。実は辺土名で会った時、大城さんは友人を連れていた。その人は日本でもトップクラスの、海洋危険生物専門医の助手なのだという。そして医師の直通の電話番号まで教えてもらった。まったく頼もしい先輩の手本のような人だ。頭がさがる以外に言葉がみつからない。


美しい与論島。思い返すと懐かしいできごとだ。
こうして与論島でたっぷりと休養をとる。栄養のある海鮮料理を頂き、安眠できる畳と布団で眠ってみるみるうちに回復。やがて左足も筋や血管が見えるほど通常に近い状態になった。停滞3日目の夕方、もうカヤックのペダルを踏んでも痛みが殆ど無いので、天気もよく翌日には出港することに。お世話になった南海荘のおじさんとおばさん、そして遠方から暖かいサポートをしてくれた大城さんに心から感謝。お酢も装備に入れる。無防備にリーフ内を歩かないことも肝に銘じる。
<要注意!!>
今振り返れば実は怖いことをしていた。ウンバチイソギンチャクにやられたときはお酢をかけてはいけないのだ。お酢がきくのはハブクラゲなど、アンドンクラゲ科とよばれるもの。ウンバチイソギンチャクにさされて刺胞が患部に残っている場合、お酢でかえって毒の発射を促してしまうから禁物なのである。水で洗い、それこそ専門医に刺胞をとって貰う必要があるとのこと。あのときお酢をかけても問題がなかったのは、非常に軽い触れ方をして、刺胞がさされた場所に残っていなかったか、もしくは単に重度の疲労による症状だったかだと思う。
さあ、次は沖永良部島が待っている。
2013年05月15日
南西諸島航海記 与論島へ渡る
2000年7月18日
与論島へ 巨大ザメに追いかけられる

<遠征中の食事>
まだ星が閃く薄暗い朝、一人起きて朝食をつくる。だいたい調理するときはママーのマカロニをゆで、カップスープで味付け。その他バナナやトマト一個、もしくはキュウリ一本など。あまりたいした食事はしていない。凝った食事をつくる余裕もなかった。この食事の偏りは、総合栄養補助食品、サプリメントで補っていた。お陰で口内炎なども出来なかった。
<海を漂う者同士>
水平線に朝日が現れる頃、カヤックにのって海に滑りだす。まるですぐ近くのように見える与論島。煙突や建物まではっきりしている。ちょうど喜界島を奄美空港近くから眺めるような感じだ。風も波も殆どなく、海面は油を流したようだ。そのせいか潮流の動きがもやもやとカヤックを揺らすのもはっきりとわかる。間も無くして上空を1機のヘリが旋回してきた。どこぞのテレビ局が取材に来たかと思い、豪快に手を振る。あとで知るのだが、実はそれは沖縄サミットの警戒にあたっていた警視庁のヘリで、不審なやからを監視していたのだ。あまりに脳天気に手をふる姿に、こいつは危険ではないと判断されたのか、さっさと行ってしまった。
やがてちいさな流木が流れてきた。ふと手に取ると、なんと小さなカニが必至にしがみついている。広い大海原で、決して諦めることなく生きるチャンスにしがみつくその姿。細いカヤックに命を預け、必至に無事と成功を信じて海渡る自分と重なった。他人(他ガニ?)とは思えず心強くさえ感じる。そして「互いにがんばろう!」と声をかけ、別れた。あのカニはあの後どこへ流れていっただろう。

キャンプをともにした菊ちゃんに、出航の写真をとってもらう。かっこよく出発したかにみえて、この後カメラを受取りにまた海岸へ帰っていく。

真っ青な海の色。似たもの同士の出会い。
<巨大ザメ… ぎゃ〜!!>
やがて日も昇り、ジリジリと照らす太陽が体力を激しく奪っていく。まめに休んでは水を頭からかぶり、少しでも冷やす。このときも頭の暑さのあまり、オリオンビールのように見えてしまった…。 ふと30mくらい離れた場所が妙に気になった。見た目にはただの水平線、もしくは水面だ。自分でも何が気になるかわからないままじっと見ていたら、突然イルカの背びれが現れた。10頭くらいの群れのようだ。せわしない動き方は、おそらく魚を追ってたべているのだろう。感動してじっと見入る。距離は一向に縮まりはしない。私はクジラやイルカのような鳴きマネをし、呼び寄せようとした。すると、カヤックの直ぐ脇、深いところから大きな魚影が浮上してくる。お、きたきた…、よっしゃ〜と喜ぶ。やがてはっきりとその姿を確認できるほど水面ちかくなったとき驚愕。あ、あれ?、あれれ? もしかして…。なんとそれはイルカではなく、巨大なサメだったのだ!!!

イメージ写真。後で特徴を知人に話すと、
「メジロザメ」の仲間ではないかとのこと。
大きさからしてオオメジロザメと思われる。

捕食中と思われるイルカの群れと遭遇。
きっと小魚も多く、サメさんの餌場でもあったようだ。
<ジョーズのテーマが流れる>
カヤックとの距離、右におよそ3m。サメの大きさ、目測で約3m。種類、不明。とにかくシャープな頭と尻尾。そして戦闘機のようにとことん理にかなった美しいフォルム。不思議と恐怖はわかなかった。それよりもなんて美しいスタイルなんだろうと、見とれてしまったいた。何秒そこにいたか、サメはイルカの群れにむかって消えていった。残念なようなほっとしたような気分だった。
私は再び与論島へむかって進みだした。何気なく後ろを振り向くと、10mほど後ろに突然サメの背びれが現れた!! さっきのやつだろうか。そしてまっすぐに付いてくる!! 頭のなかに映画「ジョーズ」のテーマが流れる。大城さんから、「5mくらいのサメは普通にいるから、カヤックによってきたらパドルで叩くくらいの勇気をもてよ」と言われていた。あのサメがもしもカヤックに接近してきたら、パドルで叩こうと考えながら進む。仮に本気で追いかけてきたら、カヤックのスピードなどで逃げられるはずはない。振り向く。まだ来る。進む。まだ来る。距離が徐々に迫る。こうなったら止まって引き寄せ、攻撃して追い払うかと思いカヤックを止めた。そしていつでも叩けるように身構えて振り向く。するとサメは180度向きをかえて去っていった。何事もなかった。

間近に迫った与論島。
<疲労がピークに達する>
快調に進むはずの無風の海。しかし何故だろう、体が重かった。スポーツドリンクはまめに飲み、塩飴などもなめている。しかし何かがおかしい。暑さのせいか、疲労だろうか。27kmなどこれまでとしたら余裕のある距離だった。節々が痛く、だるい。いつもは1時間に一回休憩をいれるリズムが、このときは30分に一回、やがて15分に一回と時間が狭まっていく。こうなると、どんなに美しい海やサンゴ礁が目の前にあっても、まったく目に入らない。とにかく1秒でも早くどこかに上がりたいのだ。そして与論島にたどり着くやいなや、なりふり構わず上陸。まずは海に浮んだ。横断のあと、手足を存分に伸ばすのは最高に気持ちがいい。それだけ座りっぱなしの格好は疲れるのだ。日陰に入って休むが、頭が痛い。呼吸も荒くなっている。買い出しなどまるでできない浜だったのでここからもう少し進み、茶花という場所に最終的にたどり着いた。どういうわけか午前中につくような簡単な距離で、もう疲れきっていて動けなかった。

与論島に到着。全身が疲労困憊だった。
与論島へ 巨大ザメに追いかけられる

<遠征中の食事>
まだ星が閃く薄暗い朝、一人起きて朝食をつくる。だいたい調理するときはママーのマカロニをゆで、カップスープで味付け。その他バナナやトマト一個、もしくはキュウリ一本など。あまりたいした食事はしていない。凝った食事をつくる余裕もなかった。この食事の偏りは、総合栄養補助食品、サプリメントで補っていた。お陰で口内炎なども出来なかった。
<海を漂う者同士>
水平線に朝日が現れる頃、カヤックにのって海に滑りだす。まるですぐ近くのように見える与論島。煙突や建物まではっきりしている。ちょうど喜界島を奄美空港近くから眺めるような感じだ。風も波も殆どなく、海面は油を流したようだ。そのせいか潮流の動きがもやもやとカヤックを揺らすのもはっきりとわかる。間も無くして上空を1機のヘリが旋回してきた。どこぞのテレビ局が取材に来たかと思い、豪快に手を振る。あとで知るのだが、実はそれは沖縄サミットの警戒にあたっていた警視庁のヘリで、不審なやからを監視していたのだ。あまりに脳天気に手をふる姿に、こいつは危険ではないと判断されたのか、さっさと行ってしまった。
やがてちいさな流木が流れてきた。ふと手に取ると、なんと小さなカニが必至にしがみついている。広い大海原で、決して諦めることなく生きるチャンスにしがみつくその姿。細いカヤックに命を預け、必至に無事と成功を信じて海渡る自分と重なった。他人(他ガニ?)とは思えず心強くさえ感じる。そして「互いにがんばろう!」と声をかけ、別れた。あのカニはあの後どこへ流れていっただろう。

キャンプをともにした菊ちゃんに、出航の写真をとってもらう。かっこよく出発したかにみえて、この後カメラを受取りにまた海岸へ帰っていく。

真っ青な海の色。似たもの同士の出会い。
<巨大ザメ… ぎゃ〜!!>
やがて日も昇り、ジリジリと照らす太陽が体力を激しく奪っていく。まめに休んでは水を頭からかぶり、少しでも冷やす。このときも頭の暑さのあまり、オリオンビールのように見えてしまった…。 ふと30mくらい離れた場所が妙に気になった。見た目にはただの水平線、もしくは水面だ。自分でも何が気になるかわからないままじっと見ていたら、突然イルカの背びれが現れた。10頭くらいの群れのようだ。せわしない動き方は、おそらく魚を追ってたべているのだろう。感動してじっと見入る。距離は一向に縮まりはしない。私はクジラやイルカのような鳴きマネをし、呼び寄せようとした。すると、カヤックの直ぐ脇、深いところから大きな魚影が浮上してくる。お、きたきた…、よっしゃ〜と喜ぶ。やがてはっきりとその姿を確認できるほど水面ちかくなったとき驚愕。あ、あれ?、あれれ? もしかして…。なんとそれはイルカではなく、巨大なサメだったのだ!!!

イメージ写真。後で特徴を知人に話すと、
「メジロザメ」の仲間ではないかとのこと。
大きさからしてオオメジロザメと思われる。

捕食中と思われるイルカの群れと遭遇。
きっと小魚も多く、サメさんの餌場でもあったようだ。
<ジョーズのテーマが流れる>
カヤックとの距離、右におよそ3m。サメの大きさ、目測で約3m。種類、不明。とにかくシャープな頭と尻尾。そして戦闘機のようにとことん理にかなった美しいフォルム。不思議と恐怖はわかなかった。それよりもなんて美しいスタイルなんだろうと、見とれてしまったいた。何秒そこにいたか、サメはイルカの群れにむかって消えていった。残念なようなほっとしたような気分だった。
私は再び与論島へむかって進みだした。何気なく後ろを振り向くと、10mほど後ろに突然サメの背びれが現れた!! さっきのやつだろうか。そしてまっすぐに付いてくる!! 頭のなかに映画「ジョーズ」のテーマが流れる。大城さんから、「5mくらいのサメは普通にいるから、カヤックによってきたらパドルで叩くくらいの勇気をもてよ」と言われていた。あのサメがもしもカヤックに接近してきたら、パドルで叩こうと考えながら進む。仮に本気で追いかけてきたら、カヤックのスピードなどで逃げられるはずはない。振り向く。まだ来る。進む。まだ来る。距離が徐々に迫る。こうなったら止まって引き寄せ、攻撃して追い払うかと思いカヤックを止めた。そしていつでも叩けるように身構えて振り向く。するとサメは180度向きをかえて去っていった。何事もなかった。

間近に迫った与論島。
<疲労がピークに達する>
快調に進むはずの無風の海。しかし何故だろう、体が重かった。スポーツドリンクはまめに飲み、塩飴などもなめている。しかし何かがおかしい。暑さのせいか、疲労だろうか。27kmなどこれまでとしたら余裕のある距離だった。節々が痛く、だるい。いつもは1時間に一回休憩をいれるリズムが、このときは30分に一回、やがて15分に一回と時間が狭まっていく。こうなると、どんなに美しい海やサンゴ礁が目の前にあっても、まったく目に入らない。とにかく1秒でも早くどこかに上がりたいのだ。そして与論島にたどり着くやいなや、なりふり構わず上陸。まずは海に浮んだ。横断のあと、手足を存分に伸ばすのは最高に気持ちがいい。それだけ座りっぱなしの格好は疲れるのだ。日陰に入って休むが、頭が痛い。呼吸も荒くなっている。買い出しなどまるでできない浜だったのでここからもう少し進み、茶花という場所に最終的にたどり着いた。どういうわけか午前中につくような簡単な距離で、もう疲れきっていて動けなかった。

与論島に到着。全身が疲労困憊だった。
2013年05月13日
南西諸島航海記 沖縄本島最北端
2000年7月17日 沖縄本島最北端 「奥」へ

オークリーのサングラスをなくしてへこんでいたが、気をとりなおして出発。港からの入出港ではリーフや潮位の心配がいらないのが良い点だ。天気予報は忘れたが、前日よりも風が弱まり、漕ぎやすいコンディションの中を北上していく。

岸沿いをいく航海は、景色を眺める楽しさがあることに改めて気がつく。

神秘的な透明感。

辺戸岬。岬越えはいつも新しい景色への期待で胸がふくらむ。
辺土名より北はリーフが少なく、急に海が落ち込んでいる。そして標高400m近い山並みを見上げる景観。これまでの離島郡とは明らかに違う迫力をもっている。

約4時間ののんびり漕行。午前10:30には、沖縄最北端の奥に到着。
リーフの切れ目から入り、集落より少し北寄りにある無人の海岸に上陸。

大城さんから真水の沢があると聞き、それを発見。
久しぶりに潮をながしてさっぱり。
<バイクにのったサンタクロース?>
さて、早く着いたので散策をはじめる。海岸を歩いていると、遠くに細い道路が見えた。この海岸はその道路の終点にあたるようだ。たどれば奥の集落へいくかもしれない。1時間くらい歩いてもいいのでのんびり行こうと思っていたら、道の端に人影が。近づいていくと、それは見事な白ひげのご老人。ベースボールキャップがまたよく似合う。まるで私服を着たサンタクロースのような貫禄、といえばどれだけ立派な白ひげかおわかりになるだろうか。定年退職後、原付バイクで日本全国を旅しているのだそうだ。いかすバイクサンタである。そして海からきた不思議な若者と道の端で出会い、大変気に入ってくれた様子。集落まで、良い子はやってはいけない原付ノーヘル二人乗りで送ってくださることに。はやいはやい! そして村につくと「Mr.サンタ」はかっこよく手をふって去っていった。きっと何処かで、サンタの衣装をきて出演依頼があってもおかしくはない。しかしほんとに着く場所ごとによくこんなことが重なる。

上から景色がみたくなり、奥の集落から辺戸岬へきた。
さっきまでこの下を漕いでいたと思うと不思議だ。
<旅はみちづれ、世は情け>
辺戸岬にはやはり観光客が賑わっている。そこで、ちょっと自分と似た空気がただよう若者に気がつく。折りたたみの小さいタイヤの自転車、背負うキャンプ道具…。ひと目でチャリダー(自転車で放浪する旅人)とわかる。そして話しかけて一気に打ち解けてしまった。北海道からきて、沖縄縦断をしているとのこと。類は友をよぶようだ。名前からとって菊ちゃんとアダ名を命名。
私は海の上ではいつも昼食をたべていなかった。大体バナナとか、エナジーバーとかそんなもので済ましていた。でもこんな余裕のある観光ではやはりがっつり食べたいものである。そして菊ちゃんといっしょに食べ、確かおごってあげたと思う。これまでいろんな人達に助けて頂いていたせいか、今度は自分が、こうした旅する若者によくしてやりたいと思ったのだ。

気合いの入った小径(タイヤが小さい)自転車乗りの菊ちゃん。
いっしょにキャンプサイトへ向かう。

岬から奥への道中。こんな看板が…。奄美には「クロウサギ注意」がありますね。
秋田や青森、東北へいくと「美人注意」というのがあるらしいです。

伊江島のダイバーにもらった「沖縄県船員組合」帽子、
実家の八百屋の玉ねぎのネット、そして足元は便所サンダル。
どれも実用性抜群の逸品だが、この格好でうろつく人は見かけない。
そりゃいないでしょと、つっこまれそうだ。

奥集落からキャンプサイトビーチへの道中。奥集落の港がみえる。

奥集落北の無人の浜。途中、薮から荒い鼻息が聞こえ、
草を激しく揺らして走り逃げていった。リュウキュウイノシシと思われる。

キャンプサイトで一服。簡単なトマトスープをつくり、菊ちゃんと一緒に食べる。たまには誰かとキャンプするのも楽しい。このMSRのストーブは、結局15年は使っていて、いまも奄美大島で活躍している。

キャンプサイトからは与論島がはっきり見える。奥の売店でおばーが言っていた。「昔から船乗りは太陽を目印に北東へ北東へ進むようにしていたんだよ」と。確かに、ここから奄美まで、島は北東方向に連なっている。
めずらしくビールなど買って乾杯。夜、どしゃ降りの雨のなか、暑苦しいテント泊。しかしまたも予期せぬ出会いや援助に、いろんな意味でお腹いっぱいで嬉しかった。そしてこれがこの旅での、沖縄県での最後のキャンプであった。
次回、いよいよラストステージ、与論島〜奄美大島航路。奄美群島縦断へ。

オークリーのサングラスをなくしてへこんでいたが、気をとりなおして出発。港からの入出港ではリーフや潮位の心配がいらないのが良い点だ。天気予報は忘れたが、前日よりも風が弱まり、漕ぎやすいコンディションの中を北上していく。

岸沿いをいく航海は、景色を眺める楽しさがあることに改めて気がつく。

神秘的な透明感。

辺戸岬。岬越えはいつも新しい景色への期待で胸がふくらむ。
辺土名より北はリーフが少なく、急に海が落ち込んでいる。そして標高400m近い山並みを見上げる景観。これまでの離島郡とは明らかに違う迫力をもっている。

約4時間ののんびり漕行。午前10:30には、沖縄最北端の奥に到着。
リーフの切れ目から入り、集落より少し北寄りにある無人の海岸に上陸。

大城さんから真水の沢があると聞き、それを発見。
久しぶりに潮をながしてさっぱり。
<バイクにのったサンタクロース?>
さて、早く着いたので散策をはじめる。海岸を歩いていると、遠くに細い道路が見えた。この海岸はその道路の終点にあたるようだ。たどれば奥の集落へいくかもしれない。1時間くらい歩いてもいいのでのんびり行こうと思っていたら、道の端に人影が。近づいていくと、それは見事な白ひげのご老人。ベースボールキャップがまたよく似合う。まるで私服を着たサンタクロースのような貫禄、といえばどれだけ立派な白ひげかおわかりになるだろうか。定年退職後、原付バイクで日本全国を旅しているのだそうだ。いかすバイクサンタである。そして海からきた不思議な若者と道の端で出会い、大変気に入ってくれた様子。集落まで、良い子はやってはいけない原付ノーヘル二人乗りで送ってくださることに。はやいはやい! そして村につくと「Mr.サンタ」はかっこよく手をふって去っていった。きっと何処かで、サンタの衣装をきて出演依頼があってもおかしくはない。しかしほんとに着く場所ごとによくこんなことが重なる。

上から景色がみたくなり、奥の集落から辺戸岬へきた。
さっきまでこの下を漕いでいたと思うと不思議だ。
<旅はみちづれ、世は情け>
辺戸岬にはやはり観光客が賑わっている。そこで、ちょっと自分と似た空気がただよう若者に気がつく。折りたたみの小さいタイヤの自転車、背負うキャンプ道具…。ひと目でチャリダー(自転車で放浪する旅人)とわかる。そして話しかけて一気に打ち解けてしまった。北海道からきて、沖縄縦断をしているとのこと。類は友をよぶようだ。名前からとって菊ちゃんとアダ名を命名。
私は海の上ではいつも昼食をたべていなかった。大体バナナとか、エナジーバーとかそんなもので済ましていた。でもこんな余裕のある観光ではやはりがっつり食べたいものである。そして菊ちゃんといっしょに食べ、確かおごってあげたと思う。これまでいろんな人達に助けて頂いていたせいか、今度は自分が、こうした旅する若者によくしてやりたいと思ったのだ。

気合いの入った小径(タイヤが小さい)自転車乗りの菊ちゃん。
いっしょにキャンプサイトへ向かう。

岬から奥への道中。こんな看板が…。奄美には「クロウサギ注意」がありますね。
秋田や青森、東北へいくと「美人注意」というのがあるらしいです。

伊江島のダイバーにもらった「沖縄県船員組合」帽子、
実家の八百屋の玉ねぎのネット、そして足元は便所サンダル。
どれも実用性抜群の逸品だが、この格好でうろつく人は見かけない。
そりゃいないでしょと、つっこまれそうだ。

奥集落からキャンプサイトビーチへの道中。奥集落の港がみえる。

奥集落北の無人の浜。途中、薮から荒い鼻息が聞こえ、
草を激しく揺らして走り逃げていった。リュウキュウイノシシと思われる。

キャンプサイトで一服。簡単なトマトスープをつくり、菊ちゃんと一緒に食べる。たまには誰かとキャンプするのも楽しい。このMSRのストーブは、結局15年は使っていて、いまも奄美大島で活躍している。

キャンプサイトからは与論島がはっきり見える。奥の売店でおばーが言っていた。「昔から船乗りは太陽を目印に北東へ北東へ進むようにしていたんだよ」と。確かに、ここから奄美まで、島は北東方向に連なっている。
めずらしくビールなど買って乾杯。夜、どしゃ降りの雨のなか、暑苦しいテント泊。しかしまたも予期せぬ出会いや援助に、いろんな意味でお腹いっぱいで嬉しかった。そしてこれがこの旅での、沖縄県での最後のキャンプであった。
次回、いよいよラストステージ、与論島〜奄美大島航路。奄美群島縦断へ。
2013年05月10日
南西諸島航海記 沖縄本島上陸
2000年7月16日 東風やや強く 波? 沖縄本島へ上陸

<怪しいクルーザー現る>
早い潮流の伊江水道を渡り、沖縄本島に接近していく。対岸はちょうど名護湾に近い場所。沖縄サミット会場の至近距離だ。サミットが行われている前後数日に渡り、沖縄全土で警察による厳重な警戒がしかれていたのは周知の通り。町中にも海沿いにも私服警官が多数配置され、ダイビング警官までいて水中も監視していたらしい。推測するにシュノーケリング警官やシーカヤック警官もいたのではないだろうか。また、ビーチでの観光客に化け、まるでゴルゴ13のようなやつがいたかもしれない。パラソルの下で横になってトロピカルドリンクを片手にする。そして傍らには美女がいて、水着だけど腰には拳銃のベルトが巻いてある、なんていう姿を想像してしまう。それはそれで楽しい。
いよいよ名護の湾近くの岸壁に近づくと、ダイビング船や漁船のような船が数隻いた。サミット期間中はダイビング業者は営業が禁止されていた。しかしやってしまうのだ、みんな。ふと沖から、大きなクルーザーがこちらに向かってきた。こんな時にこんな場所をクルージングなんて、それこそ叱られそうだ。クルーザーはぐんぐん接近してきた。……。あれ、もしかしてあれは…。直感が走る。そしていよいよ私のカヤックから20mほどまで来た時、クルーザーは「警視庁」とかかれた大きな垂れ幕をどーんと掲げた!! しまった〜!! 取り締まられる〜!!、 と冷や汗をかいてクルーザーの直ぐ横を漕いで進む。あれ? 何も言われない。無事に通過して後方に逃げてこられてしまった。どうなってるのか。見ていると、私のもっと岸寄りにいたダイビング船にまっすぐ向かっていき、叫んでいる。シーカヤックなど目に入らず、ダイビング船をマークしていたのだった。危機一髪。私はシーカヤックマラソン並の猛ダッシュでその場を去っていった。

ああ疲れた、ちょっと上がろう。ちょっと泳ごう。
これができるのは沿岸航海ならでは。
向かい風がきつく、度々上陸して休憩した。
横断ではないので泳ぐなどして体を冷やせるのも嬉しい。

木造サバニとシーカヤック。どちらも美しい。
<米軍キャンプ>
激しい向かい風に歯を食いしばって漕ぎ、ようやく辺土名付近の岸よりのコースに入る。ふと、シーカヤックで漕ぐ人を発見。手をふってアピールするが知らんかぷりの様子。ダッシュして後ろから追った。彼らが岬を曲がり見えなくり、自分も5分ほどの時間差で回り込む。するとそこは、何と米軍のキャンプ地だった。明らかに沖縄の住宅街とは一線を画す独特の施設群をみて、「異国」を強く感じた。カヤックに乗っていた人達も遠目からもでかい人だった。米軍、もしくはそのご家族だろう。以前友人が、このあたりの米軍キャンプのビーチでテントを張らせてもらおうとしたら「Get out from here!」といって追い返されたらしい。へとへとだったが、ここだけはやめようと思って頑張って進む。
<疲れきってたところに友現る>
本来なら最北端の集落「宜名真」へ行く予定が、思いのほか向かい風に苦戦。消耗しきって辺土名(へんどな)港にあがった。かかった時間は9時間。コンディションがよければ50kmは漕げる時間だが、この日は34km。まあいいか。すると、慶良間でも会ったカヤックの大先輩、大城さんが港まで駆けつけてくれた。海上からも度々連絡を取り合い、那覇からわざわざ来てくれたのだ。差し入れにもらったフライドチキンを一瞬で食べつくす。さらにめちゃくちゃ空腹だったので、ちかくの食堂で沖縄のソーキそばをごちそうになった。へとへとなときにはこんなサポートが骨身にしみてありがたい。朝、「宜名真」に行くと言っていたのでそこで待っていたらしい。途中であがったと聞いてダッシュでもどってきてくれたのだ。頭がさがる。

今は「漕店」というカヤックガイドツアーの代表、大城さん。
このときは何してたっけ? とにかく頼もしい先輩である。

最高にうまかったそーきそば。ごちそうさまでした。

そしてスロープにてテント泊。
やがて夕方になり、大城さんと別れて港へ。なんだか久しぶりのテント泊のような気がする。翌朝、カヤックの上に置いておいたオークリーのサングラスが消失。盗難と思われる。そういえば夜遅くまで、バイクで高校生のような輩がいつまでも港で騒いでいた。う〜む、離島のおおらかさにすっかり慣れ、油断していた。人が多い場所ではそれだけ貴重品管理に神経を使わなければならないようだ。
次回、いよいよ沖縄県最後のキャンプ地、「奥」へ。さすらいのバイク老人、
そして自転車乗りと出会う。

<怪しいクルーザー現る>
早い潮流の伊江水道を渡り、沖縄本島に接近していく。対岸はちょうど名護湾に近い場所。沖縄サミット会場の至近距離だ。サミットが行われている前後数日に渡り、沖縄全土で警察による厳重な警戒がしかれていたのは周知の通り。町中にも海沿いにも私服警官が多数配置され、ダイビング警官までいて水中も監視していたらしい。推測するにシュノーケリング警官やシーカヤック警官もいたのではないだろうか。また、ビーチでの観光客に化け、まるでゴルゴ13のようなやつがいたかもしれない。パラソルの下で横になってトロピカルドリンクを片手にする。そして傍らには美女がいて、水着だけど腰には拳銃のベルトが巻いてある、なんていう姿を想像してしまう。それはそれで楽しい。
いよいよ名護の湾近くの岸壁に近づくと、ダイビング船や漁船のような船が数隻いた。サミット期間中はダイビング業者は営業が禁止されていた。しかしやってしまうのだ、みんな。ふと沖から、大きなクルーザーがこちらに向かってきた。こんな時にこんな場所をクルージングなんて、それこそ叱られそうだ。クルーザーはぐんぐん接近してきた。……。あれ、もしかしてあれは…。直感が走る。そしていよいよ私のカヤックから20mほどまで来た時、クルーザーは「警視庁」とかかれた大きな垂れ幕をどーんと掲げた!! しまった〜!! 取り締まられる〜!!、 と冷や汗をかいてクルーザーの直ぐ横を漕いで進む。あれ? 何も言われない。無事に通過して後方に逃げてこられてしまった。どうなってるのか。見ていると、私のもっと岸寄りにいたダイビング船にまっすぐ向かっていき、叫んでいる。シーカヤックなど目に入らず、ダイビング船をマークしていたのだった。危機一髪。私はシーカヤックマラソン並の猛ダッシュでその場を去っていった。

ああ疲れた、ちょっと上がろう。ちょっと泳ごう。
これができるのは沿岸航海ならでは。
向かい風がきつく、度々上陸して休憩した。
横断ではないので泳ぐなどして体を冷やせるのも嬉しい。

木造サバニとシーカヤック。どちらも美しい。
<米軍キャンプ>
激しい向かい風に歯を食いしばって漕ぎ、ようやく辺土名付近の岸よりのコースに入る。ふと、シーカヤックで漕ぐ人を発見。手をふってアピールするが知らんかぷりの様子。ダッシュして後ろから追った。彼らが岬を曲がり見えなくり、自分も5分ほどの時間差で回り込む。するとそこは、何と米軍のキャンプ地だった。明らかに沖縄の住宅街とは一線を画す独特の施設群をみて、「異国」を強く感じた。カヤックに乗っていた人達も遠目からもでかい人だった。米軍、もしくはそのご家族だろう。以前友人が、このあたりの米軍キャンプのビーチでテントを張らせてもらおうとしたら「Get out from here!」といって追い返されたらしい。へとへとだったが、ここだけはやめようと思って頑張って進む。
<疲れきってたところに友現る>
本来なら最北端の集落「宜名真」へ行く予定が、思いのほか向かい風に苦戦。消耗しきって辺土名(へんどな)港にあがった。かかった時間は9時間。コンディションがよければ50kmは漕げる時間だが、この日は34km。まあいいか。すると、慶良間でも会ったカヤックの大先輩、大城さんが港まで駆けつけてくれた。海上からも度々連絡を取り合い、那覇からわざわざ来てくれたのだ。差し入れにもらったフライドチキンを一瞬で食べつくす。さらにめちゃくちゃ空腹だったので、ちかくの食堂で沖縄のソーキそばをごちそうになった。へとへとなときにはこんなサポートが骨身にしみてありがたい。朝、「宜名真」に行くと言っていたのでそこで待っていたらしい。途中であがったと聞いてダッシュでもどってきてくれたのだ。頭がさがる。

今は「漕店」というカヤックガイドツアーの代表、大城さん。
このときは何してたっけ? とにかく頼もしい先輩である。

最高にうまかったそーきそば。ごちそうさまでした。

そしてスロープにてテント泊。
やがて夕方になり、大城さんと別れて港へ。なんだか久しぶりのテント泊のような気がする。翌朝、カヤックの上に置いておいたオークリーのサングラスが消失。盗難と思われる。そういえば夜遅くまで、バイクで高校生のような輩がいつまでも港で騒いでいた。う〜む、離島のおおらかさにすっかり慣れ、油断していた。人が多い場所ではそれだけ貴重品管理に神経を使わなければならないようだ。
次回、いよいよ沖縄県最後のキャンプ地、「奥」へ。さすらいのバイク老人、
そして自転車乗りと出会う。
2013年05月09日
南西諸島航海記 伊江島巨人伝説
2000年7月15日 北東の風やや強く 波?
目と鼻の先の沖縄本島。しかし強い向かい風のため、1日停滞。お世話になった海人から自転車を借り、島内を観光することにする。

高台から向かう島を眺める。

水平線にかすかに見える、伊是名島。
海は潮が激しく流れている。大潮だった。
無理をせず予定を変更し、
沖縄本島を北上することとする。

こちらは沖縄本島。伊江島は沖縄本島の目と鼻の先。

旧日本軍のものか、アメリカ軍のものか…。
機銃法のようなものがあった。
2000年は、目の前の名護市で沖縄サミットが開催されたとは前述したが、クリントン大統領を伊江島へ招き、伊江島がうけた被害を訴えようというようなバナーが掲げられていた。そう、ここも御嶽(ウタキ)とよばれる洞穴のようなところへ多くの島民が逃れ、身を潜めていたのだ。水も食べ物も尽き、凄惨な避難生活だったとのことだった。

島内の何処からでも見える真ん中のトンガリ山へ向かう。
この岩山は「イイタッチュー」とよばれ、この島を特徴付けている。

そして頂上へくると…。なんとかつて大男がおり、その足跡がこれなんだとか。
私のサンダルは26cm。「足跡」は50cmはある。

島一番の高台からは島の様子がよく分かる。
潮流がはやいと海人から注意をうけた、沖縄本島との間の水路。
慎重に目をこらして観察する。


「ガンバリーヤ」というダイビングショップにて、今度は若い海人たちと乾杯。
夕方港へもどると、夕べはいなかった若い海人(20代)が数人。そしてかれらの招きでとなり町のダイビングショップへ移動しようということになり、カヤックを車で運んでもらう。そして宴再び。旧知の仲のように親しげな海人たち。シーカヤックをみて、このくらいのでかいサメが漁船の周りをウロウロしていたとか、だれそれの船が沈没して救助にむかったとか、海の男トークが炸裂。愉快な語らいはあっという間に深夜へ。翌朝はもう出航する予定だったので、日付が変わる前に解散。そしてショップの畳の上で、トイレ・シャワー付きの快適な宿泊をさせて頂いた。

翌朝、朝5:30には海に向かいたいと言ったら、
快く送ってくれることに。
朝日爽やかな早朝、沖縄本島側の海岸まで向かう。

あれだけ遅くまで飲んだのに、早朝出発の私をわざわざ見送りにきてくれた海人のみなさん。焼き立てかまぼこまで差し入れに頂きました。大変おいしかったです。

そしていよいよ沖縄本島へむけて出航!
確かに速い流れを感じるが、ものともせずにぐいぐい進んでいく。
この島でも、まったく予定にないことが、予期しないことが起きた。人との出会い、人からの好意…。都会で生きていると、ともすると人は人、自分は自分のようで割りきりがちだと思うが、「海からきたやつをほうってはおけない」人情に触れ、日々、心の中の宝が磨かれていく思いでいっぱいだった。
目と鼻の先の沖縄本島。しかし強い向かい風のため、1日停滞。お世話になった海人から自転車を借り、島内を観光することにする。

高台から向かう島を眺める。

水平線にかすかに見える、伊是名島。
海は潮が激しく流れている。大潮だった。
無理をせず予定を変更し、
沖縄本島を北上することとする。

こちらは沖縄本島。伊江島は沖縄本島の目と鼻の先。

旧日本軍のものか、アメリカ軍のものか…。
機銃法のようなものがあった。
2000年は、目の前の名護市で沖縄サミットが開催されたとは前述したが、クリントン大統領を伊江島へ招き、伊江島がうけた被害を訴えようというようなバナーが掲げられていた。そう、ここも御嶽(ウタキ)とよばれる洞穴のようなところへ多くの島民が逃れ、身を潜めていたのだ。水も食べ物も尽き、凄惨な避難生活だったとのことだった。

島内の何処からでも見える真ん中のトンガリ山へ向かう。
この岩山は「イイタッチュー」とよばれ、この島を特徴付けている。

そして頂上へくると…。なんとかつて大男がおり、その足跡がこれなんだとか。
私のサンダルは26cm。「足跡」は50cmはある。

島一番の高台からは島の様子がよく分かる。
潮流がはやいと海人から注意をうけた、沖縄本島との間の水路。
慎重に目をこらして観察する。


「ガンバリーヤ」というダイビングショップにて、今度は若い海人たちと乾杯。
夕方港へもどると、夕べはいなかった若い海人(20代)が数人。そしてかれらの招きでとなり町のダイビングショップへ移動しようということになり、カヤックを車で運んでもらう。そして宴再び。旧知の仲のように親しげな海人たち。シーカヤックをみて、このくらいのでかいサメが漁船の周りをウロウロしていたとか、だれそれの船が沈没して救助にむかったとか、海の男トークが炸裂。愉快な語らいはあっという間に深夜へ。翌朝はもう出航する予定だったので、日付が変わる前に解散。そしてショップの畳の上で、トイレ・シャワー付きの快適な宿泊をさせて頂いた。

翌朝、朝5:30には海に向かいたいと言ったら、
快く送ってくれることに。
朝日爽やかな早朝、沖縄本島側の海岸まで向かう。

あれだけ遅くまで飲んだのに、早朝出発の私をわざわざ見送りにきてくれた海人のみなさん。焼き立てかまぼこまで差し入れに頂きました。大変おいしかったです。

そしていよいよ沖縄本島へむけて出航!
確かに速い流れを感じるが、ものともせずにぐいぐい進んでいく。
この島でも、まったく予定にないことが、予期しないことが起きた。人との出会い、人からの好意…。都会で生きていると、ともすると人は人、自分は自分のようで割りきりがちだと思うが、「海からきたやつをほうってはおけない」人情に触れ、日々、心の中の宝が磨かれていく思いでいっぱいだった。
2013年05月07日
南西諸島航海記 伊江島へ
2000年7月14日 南東の風 波1.5〜2m
伊江島へ渡る

日付、7月13日間違いです。7月14日でした。
粟国島の高台から見えた伊江島は、水面に座るようなカヤックの位置からは全く見えない。ひたすら水平線が前方にあるのみだ。粟国島後方の渡名喜島、そして数日前缶詰になった慶良間諸島が右手側にうっすら浮かんでいる。そんな遠景をみながら外洋を漕いでいると、海を渡るという感覚満点だ。そして視界はいい。目印となるのはこれら島のとの位置関係、そして、真正面から登る太陽。そう、伊江島は、粟国島からほぼ真東に近い方向にある。しかし太陽に向かうのは眩しい! サングラスが救いだ。
<右斜め方向からの波>
これまで南風に押され、気持ちいダウンウィンドできていたが、この日は右サイド、もしくは右前方からの波風。カヤックは常に揺さぶられ、スピードも落ちては出ての繰り返し。おまけに全く前方に島が見えないと進んでいるかどうかもよくわからない。しかし焦っては疲労が倍増する。もうあきらめて進んでいくしか無い。漕いで4時間ぐらいだろうか。うっすらと沖縄本島が浮かんできた。伊江島は見えない。いや、平たい島なので見えにくいのか。
<見えてからがまた長い>
伊江島が視界に入ったのは推定約5時間後。まるでヒレを出して泳ぐクジラの背中のような姿。まんなかのとんがりぼうしが特徴だ。ひとまずほっとする。さて、みえてほっとしたが、漕いでも漕いでも近づく気がしない。これは横断の錯覚。見えたことで着いたような安心感を持ってしまい、そこからまだ数十キロあることを忘れてしまうのだ。結局その後6時間ちかくかけてやっと到着。大潮も近く、逆潮流のようなものも感じていた。

ようやくはっきり見えた、とんがり帽子の伊江島。
しかしここからさらに6時間ほどかかった。

伊江島南西側の海岸に接近。
こんな岸壁ばかりでなかなか上陸できない。

リーフと石灰岩の岸壁ばかりで上陸できず、港に入る。
堤防にいた海人らしき方に声をかけ、カヤックをおかせて頂いた。

初めは、そこで作業していた1人の海人と話をしていた。大体こんな感じだ。
私 「明日早くにでていきますから、一晩港でテント貼っていいですか?。」
海人「おお、いいよ!。どこからきた?。」
私 「粟国島からです。」
海人「……。ああっ!!?? 粟国??!! これ(カヤック)でか!??。」
私 「はい、11時間もかかっちゃって…ちょっときつかったです。」
海人「ほえ〜!?!!、流れはなかったか?。」
私 「いやあ、なんか途中進まないなあって感じましたけどね〜。」
海人「おれはまたてっきり隣の海岸のホテルの前からかとおもったよ(唖然)。」
すると「面白いやつがきたぞ」といって次々電話で仲間が呼び出され、港に総勢20名近くが集合。そして石垣島の登野城並の大宴会が始まった。

来る人達がみなこの位置にたってまずカヤックをみる。そして驚いて僕を振り向いて「これできたのか!?」と同じセルフ言う。これにはついついおかしくなってしまった。

海人の酒盛り再び。それは盛大なお祭りのようだった。
「海人は海からきたやつはみんな歓迎するもんだ」。飲んでいる時にこんな言葉を言われた。これはほんとうに嬉しかった。そして海の男達の強さ、暖かさ、懐の大きさを感じ、どんどんとこちらもいい気分で酔っていく。海という同じ舞台を共有する者同士の、一献かわせば莫逆の友、というような雰囲気だった。この旅の財産は、単に海を漕いで渡ることだけじゃない。いく島々での人との出会いもまた、忘れがたいものなのだ。

そして夜は漁具倉庫で寝かせて頂いた。弾力のある網の上はベットのようで快眠。ありがたやありがたや。翌日は強風で停滞。そしてまた新しい出会いがあり、宿までバージョンアップ。旅の意外性はいつまでも新鮮だ。
次回「伊江島巨人伝説 幻の足跡」お楽しみに。
伊江島へ渡る

日付、7月13日間違いです。7月14日でした。
粟国島の高台から見えた伊江島は、水面に座るようなカヤックの位置からは全く見えない。ひたすら水平線が前方にあるのみだ。粟国島後方の渡名喜島、そして数日前缶詰になった慶良間諸島が右手側にうっすら浮かんでいる。そんな遠景をみながら外洋を漕いでいると、海を渡るという感覚満点だ。そして視界はいい。目印となるのはこれら島のとの位置関係、そして、真正面から登る太陽。そう、伊江島は、粟国島からほぼ真東に近い方向にある。しかし太陽に向かうのは眩しい! サングラスが救いだ。
<右斜め方向からの波>
これまで南風に押され、気持ちいダウンウィンドできていたが、この日は右サイド、もしくは右前方からの波風。カヤックは常に揺さぶられ、スピードも落ちては出ての繰り返し。おまけに全く前方に島が見えないと進んでいるかどうかもよくわからない。しかし焦っては疲労が倍増する。もうあきらめて進んでいくしか無い。漕いで4時間ぐらいだろうか。うっすらと沖縄本島が浮かんできた。伊江島は見えない。いや、平たい島なので見えにくいのか。
<見えてからがまた長い>
伊江島が視界に入ったのは推定約5時間後。まるでヒレを出して泳ぐクジラの背中のような姿。まんなかのとんがりぼうしが特徴だ。ひとまずほっとする。さて、みえてほっとしたが、漕いでも漕いでも近づく気がしない。これは横断の錯覚。見えたことで着いたような安心感を持ってしまい、そこからまだ数十キロあることを忘れてしまうのだ。結局その後6時間ちかくかけてやっと到着。大潮も近く、逆潮流のようなものも感じていた。

ようやくはっきり見えた、とんがり帽子の伊江島。
しかしここからさらに6時間ほどかかった。

伊江島南西側の海岸に接近。
こんな岸壁ばかりでなかなか上陸できない。

リーフと石灰岩の岸壁ばかりで上陸できず、港に入る。
堤防にいた海人らしき方に声をかけ、カヤックをおかせて頂いた。

初めは、そこで作業していた1人の海人と話をしていた。大体こんな感じだ。
私 「明日早くにでていきますから、一晩港でテント貼っていいですか?。」
海人「おお、いいよ!。どこからきた?。」
私 「粟国島からです。」
海人「……。ああっ!!?? 粟国??!! これ(カヤック)でか!??。」
私 「はい、11時間もかかっちゃって…ちょっときつかったです。」
海人「ほえ〜!?!!、流れはなかったか?。」
私 「いやあ、なんか途中進まないなあって感じましたけどね〜。」
海人「おれはまたてっきり隣の海岸のホテルの前からかとおもったよ(唖然)。」
すると「面白いやつがきたぞ」といって次々電話で仲間が呼び出され、港に総勢20名近くが集合。そして石垣島の登野城並の大宴会が始まった。

来る人達がみなこの位置にたってまずカヤックをみる。そして驚いて僕を振り向いて「これできたのか!?」と同じセルフ言う。これにはついついおかしくなってしまった。

海人の酒盛り再び。それは盛大なお祭りのようだった。
「海人は海からきたやつはみんな歓迎するもんだ」。飲んでいる時にこんな言葉を言われた。これはほんとうに嬉しかった。そして海の男達の強さ、暖かさ、懐の大きさを感じ、どんどんとこちらもいい気分で酔っていく。海という同じ舞台を共有する者同士の、一献かわせば莫逆の友、というような雰囲気だった。この旅の財産は、単に海を漕いで渡ることだけじゃない。いく島々での人との出会いもまた、忘れがたいものなのだ。

そして夜は漁具倉庫で寝かせて頂いた。弾力のある網の上はベットのようで快眠。ありがたやありがたや。翌日は強風で停滞。そしてまた新しい出会いがあり、宿までバージョンアップ。旅の意外性はいつまでも新鮮だ。
次回「伊江島巨人伝説 幻の足跡」お楽しみに。
2013年05月01日
南西諸島航海記 粟国島 ナヴィの島へ
粟国島 ナヴィの島へ
2000年7月13日 晴れ 南の風 波1.5m
晴れた空、柔らかい南風に恵まれ、渡名喜島を意気揚々と漕ぎ出した。独特の形をした粟国島にむかっていく。知る人ぞ知る沖縄の映画、「ナヴィの恋」。沖縄の小さな島を舞台に繰り広げられるラブストーリー(かな?)。その舞台が、この粟国島だ。

ひとめで分かる粟国島へ。
<海上でのトイレはどうしたか>
晴天、視界良好。距離25kmほど。こんな日は向かう島がはっきりみえる。ちょうど奄美空港から喜界島がはっきりみえるのに似ている。爽やかな朝の風で進んでいく。この海域は、特に大きなサメが回遊していると聞いていたので、いつもよりややナーバスになっていた。とりわけ飛び込んでのトイレは絶対にしない。サメは動物の尿の臭いで寄ってくると、海洋危険生物の本でも読んでいたのだ。手を海中にいれてのんびりするにも常に水中に意識をむける。5m近いでかいサメが、実はむこうからは見えるところでこっちを伺っているのではないかと思うと、感覚が一層研ぎ澄まされる。
そこで役だったのがオリオンビールの生ビールカップ。これで小は済ませる。大は、緊張のせいか海の上でしたくはならなかった。数時間漕いでいると、日中の日射しでふらふらしてくる。そこでオリオンと書かれたカップに黄色い液体がたわわに(ちょっと泡付き)注がれると、不覚にもが美味しそう見えてしまう。そんな風に見えたら、変な気が起きる前にすぐに海に捨てよう。
<GPS、だめだこりゃ>
座間味を出る前、GPSを起動した。しかし見えてる島とはずれて方向を指す。誤差はあるのは仕方ないが、それにしても、おやっと思うほどだ。世界紛争がおきると、米軍がわざと精度を落とすと聞いたが、そのせいだろうか。奇しくもこの年は名護で沖縄サミットが開催される。この2日後くらいだったか。世界の要人が沖縄に集まっている。ミサイル攻撃などに警戒していつもよりも誤差が大きくされていた可能性もある。おまけに2重にしていたジップロックは、デッキを洗う追い波であっけなく浸水。GPSはあっという間に動かなくなった。でもおかげでよかったと思う。計器に頼るなと言われたようだ。ぱっと島をみて横断に要する時間を計る能力、体感による進んだ距離の推測能力、迫る危機への直感力などが日に日に磨かれたいったのは、ここでGPSが壊れたおかげだとおもっている。
<旅人に拾われ町へ>
南側の砂浜に上陸すると、海水浴をしている人達がいた。島の人かと思い、声をかけ、町まで行く道を尋ねる。すると那覇からの旅行者の方たちだった。歩いて町へいくと言ったら、とても遠くて大変だといわれ、ちょうど自分たちも引き上げるから送っていってくれることになった。ありがたい。またもや拾われて助けて頂くことに。

偶然上陸地にいらした4人の旅人さんに便乗して町へ。

さとうきび畑をぬけていく。
<水不足に苦しんできた島の歴史>
車で10分も走ったろうか、さとうきび畑をぬけて町に出る。すると、あちこちの家の屋根からパイプが伸び、庭でタンクのようなものにつながっている。貯水タンクだ。シマダスで読んだが、ここは水がとぼしく、昔からトゥージという水を貯める石の器を活用してきた。そして近代的に進化したのがこの雨水運用システムというわけだ。まるで普通にそこら中の家がこうしたつくりになっている。全国的に普及させれば大部分のダムなどを削減できるのではないかと思わずにいられない。

画期的な雨水利用システム

水を貯める石の器、トゥージ。いまでもつかっているのか。
<悪霊を呼んでしまった…?>
私たちは一緒に鍾乳洞など、島を散策。高台からははっきりと渡名喜島が、そしてかろうじて次に渡る伊江島が見える。映画にでてきたナヴィの家にも行った。家の庭に、お嫁さんらしき方がいらしたので、話しかけた。すると、あの映画以来、大勢が見学に押しかけて大変なことになってしまったのだという。人のためと思ってやったことがかえって悪霊を呼んでしまったといって、おばあさんがストレスで寝込んでしまったらしい。私たちはそう言われると大変申し訳なくなり、そそくさとお詫びをして家を後にした。というわけで、どうか見学になど行かずにそっとしておいてあげてください。

朝にはあそこにいた。渡名喜島がはっきりとみえる。

奄美の与路島のような石垣
<そして夜はマグロパーティー>
夕方になり、浜までおくってもらうはずだった。しかし旅人のみなさんは話し合い、長谷川君も今夜泊めてあげようということで決まったのだそうだ。誠にありがたく、ご好意に甘えさせて頂いた。おまけにマグロのお刺身を満腹にごちそうになってしまった。こんなはずではなかったありがたいハプニングである。

キハダマグロか。たっぷり頂いて精をつける。
<覚えていてくれたら、それでいい>
4人の方たちは、司法書士の試験が終わり、息抜きに遊びにきて、偶然浜で私と出会った。彼らは知り合いの土木会社の建物の二階に泊まっていて、そこに招いてくださったのだ。私は、旅が無事に終わったらお手紙を送りたいと申し出た。しかしこう言われた。「いいや、長谷川君、その必要はないよ。旅の途中、こんな人達に出会ったということを君が覚えていてくれたらそれでいいんだよ」。いつか自分も誰かに言ってみたい、かっこ良すぎるセリフにに感動してしまった。

久しぶりに畳の上で眠る。建物とは心強いものだ。
テントのように雨や風を気にしないでいいとは
ほんとうにありがたいと思う。

夕焼けが島を染める
<南風やや強くなれど心は静か>
翌朝、なんと朝食におにぎりまでつくってくれた。ご親切に、すっかりパワーアップしてしまう。本当に何から何までお世話になってしまった。まるで行く先々をすべてお見通しの神様が、私を迎えるように人を使わしてくださっているのだろうか。
海はやや南風強し。髪の毛がばさばさいうほど。波もざばんざばんとうちつける。見た目にはちょっといやだった。迷いを払うため、胸のうちに問いかける。行くべきか否か。静かで暖かな反応がこだまする。そして行くべしと判断し、海へカヤックを浮かべた。お世話になった粟国島、4人の司法書士さんたち。ありがとうございます。これ以外言葉はみつからなかった。たとえ旅が終わろうとも、彼らに言われたように、こんな出会いを一生忘れないだろう。やがて後方の彼らの姿が小さくなる。意識を前進に集中していく。そしてまったく見えない伊江島をめざし、私は水平線へと邁進していった。

次回「伊江島へ」
2013年04月29日
南西諸島航海記 渡名喜島へ
さあ、再び13年前の記憶へタイムトリップしましょう。。。台風のため、座間味島で4日間の停滞生活。5日目にしてようやくケラマを旅立ちます。そして北西の渡名喜島、粟国島と離島をまわり伊江島へ、やがて奄美群島の横断へ向かいます。それでは、再び、非日常のカヤックトリップ、楽しみください。
2000年 7月12日 南の風 波の高さ1.5m
4日間も同じ場所でのんびりしていると、旅立つのもなんだか淋しくなる。再び外洋に向かう緊張が走るが、すぐに感覚が旅モードにもどった。これから大海原へ踊り出るときのあの勇壮な気分、そしていい意味での感覚の高揚はすばらしいものだ。
<日々、宇宙へ向かうような祈り>
外洋のまっただ中は海の生き物たちの世界。そこへ手漕ぎ船で出て行く。人間の力がコントロールできる世界ではない。どんなに準備をしても、何が起きるかわからない未知の宇宙でもある。つまり、生きて再び陸に立てるとは限らないのだ。
八重山での体験からもそうだが、私はいつも出艇前に自然と祈りを捧げるようになっていた。それは大自然の神へ、航海の無事を願う祈り。そして海の生き物たちへ、非力な人間にこの海を通らせて頂くことの、許しを頂く祈りだった。そんな祈りを心を鎮めて捧げると、必ず答えが帰ってくる。安らかで暖かな感触がこみ上げてくるときは、そのお許しを頂いた時、逆に乱れを感じたり胸騒ぎのするときは、海を渡るのに誤った気持ちでいる時だとおもっている。
無事に陸についた後、生きてここまで運んで頂けたことを、海と、その場で生きるすべての生き物たちに感謝していた。再び陸に立つことは、決して当たり前なことではない。

以下、当時の日記より
台風4号で4日間、座間味に缶詰だった。HILOのおかげでゆかいな停滞だった。今日のAM8:00にザマミを出てHILOと別れた。いろいろと助けてくれたことがありがたい。

晴れ渡る水平線にくっきり見えた渡名喜島。
漕ぐこと4時間、渡名喜島につき、湾の入り口でHILOに電話をし、無事を伝えた。海は青く、深かった。のんびりと泳ぐ海亀の子がかわいらしい。

東側の、人気のない湾に上陸。南風がここちよく、
実に気持ちのいいパドリングだった。
島についても、人気がなく、ひっそりとしていた。のどかな感じ。歩いて島の反対に回るが、食堂なし。店もなし。ターミナルにも、かき氷とコーヒーのみ。
しかし日射が暑い。じりじりとくる。

リーフ座礁の心配はなく、ビーチに上陸してほっとする。

はやくつくと、今度は何をしていいか途方に暮れる。
役場のそばの地図で店をみつけ、探す。しかし一体この島は何だ。集落が迷路のようだ。どこまでいっても似たような十字路ばかり。迷っていると、島の女の子(こども)が手を振ってくれた。人なつこいなあ。やがてパーラーをみつけたおれは、ピタッと止まって入ってしまった。そこは、ミニトラックが台所みたくなっていて、キャンピングカーのようだった。暑さと空腹でたまらず生ビール! うまい!

パーラーのご主人。こんな出会いがほっとする。

つかまえたカマキリを自慢気にみせる女の子。
ご主人と話していると、やっと島で人と会えた気がしてほっとした。すると、さっきの小さな女の子もきて、カマキリをみせておしゃべりがはじまった。当たり前だけど、4才くらいのその子も島の方言を話す。それを聞き、ああ、島だなあと嬉しくなった。
ご主人は昔、船のりで、あちこち外国へいったらしい。マグロ船だ。何でも、その船が沈み、47日間漂流していたことがあったらしい。一番辛かったのは、タバコと酒がなかったことだそうだ。助かってこその冗談だろう。パーラーのあるところは、去年まで家だったが、台風でふっとび、こわし、そしてパーラーにしたという。オープン12日目のキャンピングカーのようなパーラーだった。ごちそうしてくれた久米島のタコはうまくて、ビールと、女の子と、おじさんの人柄とともに、豊かな気分にしてくれた。どうもありがとうございました。 (7月12日 渡名喜島にて記す)

ごちそうになった久米島のタコ。うまかったです。
<昼間は出てこない、島の人達>
パーラーの生ビールとおしゃべりですっかりいい気分の私は、再び島の散策へ。上陸した東側からフェリーの着く西側まで、15分も歩けばいけてしまう距離だった。山の上の見晴台のようなところには、昔島との間で合図の狼煙をあげていた遺跡もあった。空が夕焼けに染る頃、ぼんやり見ていたらようやく人の声が聞こえ始めた。そうか、暑すぎてみんな夕方から動き出すのかと納得。

島の西側。村はこちらに集中している。

中央、遠くに見えるのは久米島。
手前右側の小さな島は、
米軍の射撃訓練場らしい。
<海の男、パーラーのおじさん。旅人に十得ナイフを授ける>
夕方になり(といっても7時頃)、夕飯を作っていたら、バイクがとまった。昼間のパーラーのおじさんだった。一体どこに上陸したのか気になって探してくれていたのだ。カヤックを見るなり、大変心配そうな表情になった。細いワイヤーだけで動くラダーなど、とくに心もとなかったようだ。「こんなもろいつくりなのか…。海では何がおきるかわからんからな…」。漂流経験がある海人だけに、その言葉は重かった。しかし登野城漁港のような不安は沸かなかった。おじさんのいうことは正しかった。しかし、死にそうなことも体験し、無事に横断も経験してきた静かな自信があった。何が起きるかわからないが、かといって必要以上に恐れなくてもいい。それを体でわかっていたのだろう。
さっき海岸で大勢がにぎやかにしていたことを言うと、あれは役場の人達が、仕事終わるなり海で酒を飲んでいるんだという。ほぼ毎日そうらしい。「おれはああいうのが大っ嫌いなんだ! たいして仕事もしないくせに飲むことだけは一生懸命だ!」 と一喝。はっきりこう言ったか覚えてないが、何かこんなようなことを言っていて、そうだそうだと大変頷いてしまったことだけ、やたら覚えている。

美しい夕焼け。これでようやく8時頃。
そしておじさんはパーラーのつまみと、自分が海でお守りのように持っていたという十得ナイフを授けてくれた。もうドライバー先が丸くて年季が入っていたが、なんとも心強いお守りだった。
次回「粟国島 ナヴィの島へ」
2000年 7月12日 南の風 波の高さ1.5m
4日間も同じ場所でのんびりしていると、旅立つのもなんだか淋しくなる。再び外洋に向かう緊張が走るが、すぐに感覚が旅モードにもどった。これから大海原へ踊り出るときのあの勇壮な気分、そしていい意味での感覚の高揚はすばらしいものだ。
<日々、宇宙へ向かうような祈り>
外洋のまっただ中は海の生き物たちの世界。そこへ手漕ぎ船で出て行く。人間の力がコントロールできる世界ではない。どんなに準備をしても、何が起きるかわからない未知の宇宙でもある。つまり、生きて再び陸に立てるとは限らないのだ。
八重山での体験からもそうだが、私はいつも出艇前に自然と祈りを捧げるようになっていた。それは大自然の神へ、航海の無事を願う祈り。そして海の生き物たちへ、非力な人間にこの海を通らせて頂くことの、許しを頂く祈りだった。そんな祈りを心を鎮めて捧げると、必ず答えが帰ってくる。安らかで暖かな感触がこみ上げてくるときは、そのお許しを頂いた時、逆に乱れを感じたり胸騒ぎのするときは、海を渡るのに誤った気持ちでいる時だとおもっている。
無事に陸についた後、生きてここまで運んで頂けたことを、海と、その場で生きるすべての生き物たちに感謝していた。再び陸に立つことは、決して当たり前なことではない。

以下、当時の日記より
台風4号で4日間、座間味に缶詰だった。HILOのおかげでゆかいな停滞だった。今日のAM8:00にザマミを出てHILOと別れた。いろいろと助けてくれたことがありがたい。

晴れ渡る水平線にくっきり見えた渡名喜島。
漕ぐこと4時間、渡名喜島につき、湾の入り口でHILOに電話をし、無事を伝えた。海は青く、深かった。のんびりと泳ぐ海亀の子がかわいらしい。

東側の、人気のない湾に上陸。南風がここちよく、
実に気持ちのいいパドリングだった。
島についても、人気がなく、ひっそりとしていた。のどかな感じ。歩いて島の反対に回るが、食堂なし。店もなし。ターミナルにも、かき氷とコーヒーのみ。
しかし日射が暑い。じりじりとくる。

リーフ座礁の心配はなく、ビーチに上陸してほっとする。

はやくつくと、今度は何をしていいか途方に暮れる。
役場のそばの地図で店をみつけ、探す。しかし一体この島は何だ。集落が迷路のようだ。どこまでいっても似たような十字路ばかり。迷っていると、島の女の子(こども)が手を振ってくれた。人なつこいなあ。やがてパーラーをみつけたおれは、ピタッと止まって入ってしまった。そこは、ミニトラックが台所みたくなっていて、キャンピングカーのようだった。暑さと空腹でたまらず生ビール! うまい!

パーラーのご主人。こんな出会いがほっとする。

つかまえたカマキリを自慢気にみせる女の子。
ご主人と話していると、やっと島で人と会えた気がしてほっとした。すると、さっきの小さな女の子もきて、カマキリをみせておしゃべりがはじまった。当たり前だけど、4才くらいのその子も島の方言を話す。それを聞き、ああ、島だなあと嬉しくなった。
ご主人は昔、船のりで、あちこち外国へいったらしい。マグロ船だ。何でも、その船が沈み、47日間漂流していたことがあったらしい。一番辛かったのは、タバコと酒がなかったことだそうだ。助かってこその冗談だろう。パーラーのあるところは、去年まで家だったが、台風でふっとび、こわし、そしてパーラーにしたという。オープン12日目のキャンピングカーのようなパーラーだった。ごちそうしてくれた久米島のタコはうまくて、ビールと、女の子と、おじさんの人柄とともに、豊かな気分にしてくれた。どうもありがとうございました。 (7月12日 渡名喜島にて記す)

ごちそうになった久米島のタコ。うまかったです。
<昼間は出てこない、島の人達>
パーラーの生ビールとおしゃべりですっかりいい気分の私は、再び島の散策へ。上陸した東側からフェリーの着く西側まで、15分も歩けばいけてしまう距離だった。山の上の見晴台のようなところには、昔島との間で合図の狼煙をあげていた遺跡もあった。空が夕焼けに染る頃、ぼんやり見ていたらようやく人の声が聞こえ始めた。そうか、暑すぎてみんな夕方から動き出すのかと納得。

島の西側。村はこちらに集中している。

中央、遠くに見えるのは久米島。
手前右側の小さな島は、
米軍の射撃訓練場らしい。
<海の男、パーラーのおじさん。旅人に十得ナイフを授ける>
夕方になり(といっても7時頃)、夕飯を作っていたら、バイクがとまった。昼間のパーラーのおじさんだった。一体どこに上陸したのか気になって探してくれていたのだ。カヤックを見るなり、大変心配そうな表情になった。細いワイヤーだけで動くラダーなど、とくに心もとなかったようだ。「こんなもろいつくりなのか…。海では何がおきるかわからんからな…」。漂流経験がある海人だけに、その言葉は重かった。しかし登野城漁港のような不安は沸かなかった。おじさんのいうことは正しかった。しかし、死にそうなことも体験し、無事に横断も経験してきた静かな自信があった。何が起きるかわからないが、かといって必要以上に恐れなくてもいい。それを体でわかっていたのだろう。
さっき海岸で大勢がにぎやかにしていたことを言うと、あれは役場の人達が、仕事終わるなり海で酒を飲んでいるんだという。ほぼ毎日そうらしい。「おれはああいうのが大っ嫌いなんだ! たいして仕事もしないくせに飲むことだけは一生懸命だ!」 と一喝。はっきりこう言ったか覚えてないが、何かこんなようなことを言っていて、そうだそうだと大変頷いてしまったことだけ、やたら覚えている。

美しい夕焼け。これでようやく8時頃。
そしておじさんはパーラーのつまみと、自分が海でお守りのように持っていたという十得ナイフを授けてくれた。もうドライバー先が丸くて年季が入っていたが、なんとも心強いお守りだった。
次回「粟国島 ナヴィの島へ」
2013年04月25日
南西諸島航海記 座間味島で避難生活
2000年 7月8日〜11日 座間味島にて台風直撃
天気予報では一時 うねりの高さ8mのち10mとまで言っていた。
島に残って生き残ることを決意したわれわれは、まずはテントをはって寝床を確保。丈夫な建物の下なので安心だ。暗くなるにつれ、風、雨が激しくなる。そんな中、貸し切りの阿真ビーチキャンプ場で悠々と夕飯をたべ、飲んで酔っぱらいっていた。だってもう飲むくらいしかできないんです。大変に非日常的なそん状況が面白くて仕方がない。台風の日、わざと傘とかぶっこわして、びしょ濡れになって家に帰る小学生みたいな気分だ。

事務所のおばちゃんのおかげでよい避難場所を確保。
結局ここで4泊もお世話になった。

もう開き直って乾杯!
7月9日 停滞2日目は台風のまっただ中。風、雨ともに尋常じゃない。でもじっとしてるのもつまらない。またもや開き直って海岸に食器を洗いにいってみたり、狂ったように歓喜してシュノーケリングして過ごす。雨具を着込んで島内散歩までする。帰ってきてシャワーをかぶるが、雨なのかシャワーなのかわからない。

もう何をしても濡れるのはいっしょ。

はあ、はやく晴れないかなあ。

雨かシャワーかわかりません。
7月10日 停滞3日目 ようやく台風が去る。晴れだがまだ風強く、波高し。海には出られず。隣の古座間味ビーチの海の家のご主人を訪ねたり、売店に買い出しなどしにいく。見事に牛乳、卵、肉をはじめ、野菜もすっからかん。晴れるとともに、キャンプ場に人がやってきた。仲良くなった人の家にかくまってもらっていたという旅人。カヤックを引いてやってきたのだ。仲良くなり、夜など一緒に飲んでは楽しく過ごした。

折りたたみカヤックをもってあらわれた女性カヤッカー。
楽しい出会いだった。いまは西表島でネイチャーガイドをしている。

台風一過、見事な青空と海。

しかしまだ風はつよい。
7月11日 停滞4日目 台風去り、海もやや静かに。もう明日には出発できそうだった。そこで知り合ったカヤッカーの女性と3人で、海で遊ぶことにする。3日間の鬱憤を晴らすように鮮やかなケラマの海に踊りだした。

ケラマ最高!

ケラマ最高その2!

ケラマ最高その3!

こうして4日間、彼女のHILOと避難生活を楽しく生き延びた。7月11日、座間味島最後の夕方を迎える。時には立ち止まってゆっくりする。そんな時間も旅にはいいものだった。
次回「渡名喜島へ パーラーのおじさん、大阪魂で島役人を一喝!」
天気予報では一時 うねりの高さ8mのち10mとまで言っていた。
島に残って生き残ることを決意したわれわれは、まずはテントをはって寝床を確保。丈夫な建物の下なので安心だ。暗くなるにつれ、風、雨が激しくなる。そんな中、貸し切りの阿真ビーチキャンプ場で悠々と夕飯をたべ、飲んで酔っぱらいっていた。だってもう飲むくらいしかできないんです。大変に非日常的なそん状況が面白くて仕方がない。台風の日、わざと傘とかぶっこわして、びしょ濡れになって家に帰る小学生みたいな気分だ。

事務所のおばちゃんのおかげでよい避難場所を確保。
結局ここで4泊もお世話になった。

もう開き直って乾杯!
7月9日 停滞2日目は台風のまっただ中。風、雨ともに尋常じゃない。でもじっとしてるのもつまらない。またもや開き直って海岸に食器を洗いにいってみたり、狂ったように歓喜してシュノーケリングして過ごす。雨具を着込んで島内散歩までする。帰ってきてシャワーをかぶるが、雨なのかシャワーなのかわからない。

もう何をしても濡れるのはいっしょ。

はあ、はやく晴れないかなあ。

雨かシャワーかわかりません。
7月10日 停滞3日目 ようやく台風が去る。晴れだがまだ風強く、波高し。海には出られず。隣の古座間味ビーチの海の家のご主人を訪ねたり、売店に買い出しなどしにいく。見事に牛乳、卵、肉をはじめ、野菜もすっからかん。晴れるとともに、キャンプ場に人がやってきた。仲良くなった人の家にかくまってもらっていたという旅人。カヤックを引いてやってきたのだ。仲良くなり、夜など一緒に飲んでは楽しく過ごした。

折りたたみカヤックをもってあらわれた女性カヤッカー。
楽しい出会いだった。いまは西表島でネイチャーガイドをしている。

台風一過、見事な青空と海。

しかしまだ風はつよい。
7月11日 停滞4日目 台風去り、海もやや静かに。もう明日には出発できそうだった。そこで知り合ったカヤッカーの女性と3人で、海で遊ぶことにする。3日間の鬱憤を晴らすように鮮やかなケラマの海に踊りだした。

ケラマ最高!

ケラマ最高その2!

ケラマ最高その3!

こうして4日間、彼女のHILOと避難生活を楽しく生き延びた。7月11日、座間味島最後の夕方を迎える。時には立ち止まってゆっくりする。そんな時間も旅にはいいものだった。
次回「渡名喜島へ パーラーのおじさん、大阪魂で島役人を一喝!」
2013年04月24日
南西諸島航海記 那覇から慶良間へ横断
慶良間列島へ
2000年7月8日
晴れ 東の風やや強く 波3m うねりをともなうでしょう
<再出発>
那覇で落ち合うはずの友人たちは、台風接近にともなって飛行機が欠航となってしまった。しかし間一髪、彼女のHILOは間に合い、7日に那覇入りしていたのだ。久しぶりに2人して町中に繰り出し、大波で流出した帽子やサングラスなどをそろえる。パドルフロート(転覆したとき再度乗り込むための浮き)、ビルジポンプ(座席の排水用ポンプ)、防水ライトを沖縄カヤックセンターで、そして那覇の量販店で防水カメラも再購入。痛かったのは中の記録写真ごと失ったことだ。変な話、外身はいくらでも換えはあるが、写真は取り返せない。あの時流されたフィルムには何が写っていたか。
<胸騒ぎの警告なし 出発を決意>
まだ薄暗い早朝からカヤックを引いていく。カヤックセンターから10分も歩くと波の上公園という場所があり、そこから出艇できる。そこまで例のソープランド街を通り抜けていく。シーカヤックを引いて歩いている私は違和感満々である。さすがに早朝は呼び込みはない。時度疲れ果てた顔で歩いてる若い女性は、勤務あけのソープ嬢のお姉ちゃんだろうか。公園につくと、カヤックを浮かべ、漕ぎだす。HILOに見送られ、一路海へ。大波でラダーが90度近くまがっていたときは、もう旅はおしまいかと思った。でも意外に力づくで直ったので安心。まだ旅が続き、再び出発できることがたまらなく嬉しかった。
自分の身の程を知った者だけしか勝ち得ない、静かな自信。あの大波が授けてくれた、この海を生き抜くための鍵。静かな自信にみちていると、危険の兆候や不吉な胸騒ぎに敏感になる。この日も天気予報では凄まじいことを言っていた。しかし慶良間の前島、渡嘉敷へは、かつて単独で横断した経験があった。たとえ巨大なうねりがあっても、石垣島とは違う。それをクリアーできる地の利を知っていたこともあるが、胸騒ぎはまるでしない。行くべしと判断した。
<うねりを越えて前島、渡嘉敷、座間味へ>
那覇から離れるにつれ、どんどんと背中を東風が押してくれる。爽快な前進。やがて濃紺の外洋まっただ中では、南(ケラマに向かい、左手)から大きなうねりが入ってきていた。さすがに3mと天気予報が言うだけある。前方には前島の陰がはっきり見える。距離は約20kmか。自分の居場所からその前島をつなぐ長いラインが、同じうねりとして同時に動いている。まさに巨大な谷と山が動いているようだった。さて、計算で行けば、のんびりいっても午後3時くらいには目的地の座間味島に上陸する。12時間近く漕いでいた八重山としたら、仕事早あがりのような気楽な気分だった。

爽快な追い風にのって前島へ到着。
すかっとする青い海と空。

前島に上陸して休憩。途中で陸にあがれるのはいいものだ。
大空に両手をあげて深呼吸する。

渡嘉敷島付近の海の色。南らしい。
天気快調の中、このまま渡嘉敷島へ。そしてギシップ島との間を北回りで入り、渡嘉志久海岸へ。そこで、深夜迎えにきてた北田さん、駒崎さん、そしてカヤックガイドの大城さんのツアーメンバーと(現漕店代表)合流して一休み。

深夜港に迎えにきてくれた駒崎さん(左)と私(右)。
二人して野人のような風貌を気にもしていない。

大城さん(左から2番目)はシーカヤックの大先輩。
旅先でもたいへん助けられた。
<台風が来るけどどうする?>
渡嘉志久ビーチで上陸すると、ツアーのお客さん達は大にぎわい。みんなソロの旅をしている輩に興味津々の様子。私のカヤックを面白そうにみていた。
あと2日もすると南方から台風がのぼってくるのはわかっていた。ケラマで停滞か、あるいは…。いろいろ考えていたらやはり大城さんから一言。「残って台風が去るまで島に缶詰になるか、カヤックを置いてフェリーでいったん那覇へ帰るかしないといかんよ」。
私は考えた。……。また那覇に? しかし前に進むためにまたここくるのなら、いっそ島で台風をやり過ごそう。「大丈夫。残って停滞する。」そう答えて見送られ、先にHILOがフェリーで行って待っている座間味島へ向かった。風は強まっていた。ぐんぐんと渡嘉敷島と座間味島の間を流れていき、午後2:30、座間味島の古座間味ビーチへたどり着いた。やはり早あがり。明るいうちに上陸できることが安心だ。

座間味島にて。余裕の到着。
<阿真ビーチにて4日間の避難生活へ>
古座間味ビーチで泳いでいたHILOがカヤックの脇から手を振っている。しばしいっしょに泳ぎ、久しぶりに海を満喫した。そして夕方には隣の阿真ビーチへ移動し、キャンプすることにした。のんきな我々を置いて、キャンプ場はざわついていた。それもそのはず、台風4号が2日後には直撃に近いコースでくる。フェリーも翌日には欠航。キャンプ場の管理人さんも、ちょうど閉鎖して帰るところだった。事情を話すと心配してくれ、事務所の建物の大きな屋根の下でテントを張ってもいいよとお許しいただいた。ありがたい。でなければテントごと吹っ飛ばされていただろう。
やがてちらほらいたお客さんもどんどん逃げていき、HILOと2人、台風避難民のような4日間がはじまった。まさにサバイバルキャンプだ。

午前6:30〜午後2:30 約8時間
2000年7月8日
晴れ 東の風やや強く 波3m うねりをともなうでしょう
<再出発>
那覇で落ち合うはずの友人たちは、台風接近にともなって飛行機が欠航となってしまった。しかし間一髪、彼女のHILOは間に合い、7日に那覇入りしていたのだ。久しぶりに2人して町中に繰り出し、大波で流出した帽子やサングラスなどをそろえる。パドルフロート(転覆したとき再度乗り込むための浮き)、ビルジポンプ(座席の排水用ポンプ)、防水ライトを沖縄カヤックセンターで、そして那覇の量販店で防水カメラも再購入。痛かったのは中の記録写真ごと失ったことだ。変な話、外身はいくらでも換えはあるが、写真は取り返せない。あの時流されたフィルムには何が写っていたか。
<胸騒ぎの警告なし 出発を決意>
まだ薄暗い早朝からカヤックを引いていく。カヤックセンターから10分も歩くと波の上公園という場所があり、そこから出艇できる。そこまで例のソープランド街を通り抜けていく。シーカヤックを引いて歩いている私は違和感満々である。さすがに早朝は呼び込みはない。時度疲れ果てた顔で歩いてる若い女性は、勤務あけのソープ嬢のお姉ちゃんだろうか。公園につくと、カヤックを浮かべ、漕ぎだす。HILOに見送られ、一路海へ。大波でラダーが90度近くまがっていたときは、もう旅はおしまいかと思った。でも意外に力づくで直ったので安心。まだ旅が続き、再び出発できることがたまらなく嬉しかった。
自分の身の程を知った者だけしか勝ち得ない、静かな自信。あの大波が授けてくれた、この海を生き抜くための鍵。静かな自信にみちていると、危険の兆候や不吉な胸騒ぎに敏感になる。この日も天気予報では凄まじいことを言っていた。しかし慶良間の前島、渡嘉敷へは、かつて単独で横断した経験があった。たとえ巨大なうねりがあっても、石垣島とは違う。それをクリアーできる地の利を知っていたこともあるが、胸騒ぎはまるでしない。行くべしと判断した。
<うねりを越えて前島、渡嘉敷、座間味へ>
那覇から離れるにつれ、どんどんと背中を東風が押してくれる。爽快な前進。やがて濃紺の外洋まっただ中では、南(ケラマに向かい、左手)から大きなうねりが入ってきていた。さすがに3mと天気予報が言うだけある。前方には前島の陰がはっきり見える。距離は約20kmか。自分の居場所からその前島をつなぐ長いラインが、同じうねりとして同時に動いている。まさに巨大な谷と山が動いているようだった。さて、計算で行けば、のんびりいっても午後3時くらいには目的地の座間味島に上陸する。12時間近く漕いでいた八重山としたら、仕事早あがりのような気楽な気分だった。

爽快な追い風にのって前島へ到着。
すかっとする青い海と空。

前島に上陸して休憩。途中で陸にあがれるのはいいものだ。
大空に両手をあげて深呼吸する。

渡嘉敷島付近の海の色。南らしい。
天気快調の中、このまま渡嘉敷島へ。そしてギシップ島との間を北回りで入り、渡嘉志久海岸へ。そこで、深夜迎えにきてた北田さん、駒崎さん、そしてカヤックガイドの大城さんのツアーメンバーと(現漕店代表)合流して一休み。

深夜港に迎えにきてくれた駒崎さん(左)と私(右)。
二人して野人のような風貌を気にもしていない。

大城さん(左から2番目)はシーカヤックの大先輩。
旅先でもたいへん助けられた。
<台風が来るけどどうする?>
渡嘉志久ビーチで上陸すると、ツアーのお客さん達は大にぎわい。みんなソロの旅をしている輩に興味津々の様子。私のカヤックを面白そうにみていた。
あと2日もすると南方から台風がのぼってくるのはわかっていた。ケラマで停滞か、あるいは…。いろいろ考えていたらやはり大城さんから一言。「残って台風が去るまで島に缶詰になるか、カヤックを置いてフェリーでいったん那覇へ帰るかしないといかんよ」。
私は考えた。……。また那覇に? しかし前に進むためにまたここくるのなら、いっそ島で台風をやり過ごそう。「大丈夫。残って停滞する。」そう答えて見送られ、先にHILOがフェリーで行って待っている座間味島へ向かった。風は強まっていた。ぐんぐんと渡嘉敷島と座間味島の間を流れていき、午後2:30、座間味島の古座間味ビーチへたどり着いた。やはり早あがり。明るいうちに上陸できることが安心だ。

座間味島にて。余裕の到着。
<阿真ビーチにて4日間の避難生活へ>
古座間味ビーチで泳いでいたHILOがカヤックの脇から手を振っている。しばしいっしょに泳ぎ、久しぶりに海を満喫した。そして夕方には隣の阿真ビーチへ移動し、キャンプすることにした。のんきな我々を置いて、キャンプ場はざわついていた。それもそのはず、台風4号が2日後には直撃に近いコースでくる。フェリーも翌日には欠航。キャンプ場の管理人さんも、ちょうど閉鎖して帰るところだった。事情を話すと心配してくれ、事務所の建物の大きな屋根の下でテントを張ってもいいよとお許しいただいた。ありがたい。でなければテントごと吹っ飛ばされていただろう。
やがてちらほらいたお客さんもどんどん逃げていき、HILOと2人、台風避難民のような4日間がはじまった。まさにサバイバルキャンプだ。

午前6:30〜午後2:30 約8時間
2013年04月22日
南西諸島航海記 那覇へ
2000年 7月6日 石垣島〜那覇港
那覇〜奄美航路編へ
夕方のフェリーが出るかどうかも怪しい時化の石垣島だったが、出るときいてひと安心。こんな大きな船に乗ってしまえばもう大丈夫だ。あとはゆれていくだけ。しかし台風がすぐ近くまで迫っている海域。フェリーは揺れに揺れ、寝ているのがやっとだった。小さな船で揺られるのは平気でも、この大きな揺れは何度味わっても慣れることがない。 横になりながら何時間たったか。八重山諸島の出来事が浮かんでは消えていった。
<判断を迷わせるものを断つ>
落ち着いたところで、那覇で合流する予定の友人に電話をいれる。そして、すまないが今後は旅先で合流する計画は、なしにしてくれるように頼んだ。判断はあくまでも安全が最優先でなくてはならない。人が待っているから多少無理してでもいかなければ…という状況をつくったこと。それもあの大波にでてしまった一つの要因だったことを反省した。結局台風の接近で彼らは那覇に来られなかった。友人達が沖縄に入ったのは、私が与論島に渡ってからのことだった。
<どっきりカメラか? 友人による深夜の出迎え>
深夜に那覇についたフェリー。事前に沖縄カヤックセンターの仲村さんに連絡をしてあり、そちらにお邪魔することになっていた。だけど深夜だ。港からは、とりあえず数十分かけてでも歩いていかないと行けない。ま、それも旅だと思っていた。タラップをおりていくと、見知った顔が手を振っている。え?、まさか…。 ツアーで仲村さんのショップに来ていた、レイドバック(関東のカヤックショップ)の北田さんと、駒崎さんだった。深夜である。まさかのサプライズ出迎えに感動しないではいられなかった。
ただただ、ありがたい。

いまは移転しているが、懐かしき13年前の沖縄カヤックセンター。辻2町目、ソープランド街の片隅の建物だ。通りをとおって買い出しなど行くと、度々「かわいいこいるよ〜」といって呼びかけられた。
翌朝カヤックを港から回収。そして流出した装備をカヤックセンターで再び補充。仲村さんに旅のコースのアドバイスなど受ける。あの大波以来、自分の中で何かが変わった。仲村さんの話を聞きながら、静かな自信に満ちて海図をながめている自分だった。
那覇を出てケラマ諸島をまわり、渡名喜島、粟国島、伊江島、伊是名、伊平屋など離島コースをいくことにする。仲村さん曰く「なかなか男らしいコース」なのだそうだ。
フェリーの中で見知らぬおじさんと仲良くなり、旅の話、沖縄の島々の話などし、「旅の無事を祈っているよ」と暖かい言葉を残してくれた。そして降りたら友人の出迎え。行く先々で人々との出会いや巡り合わせに支えられていた。
那覇〜奄美航路編へ
夕方のフェリーが出るかどうかも怪しい時化の石垣島だったが、出るときいてひと安心。こんな大きな船に乗ってしまえばもう大丈夫だ。あとはゆれていくだけ。しかし台風がすぐ近くまで迫っている海域。フェリーは揺れに揺れ、寝ているのがやっとだった。小さな船で揺られるのは平気でも、この大きな揺れは何度味わっても慣れることがない。 横になりながら何時間たったか。八重山諸島の出来事が浮かんでは消えていった。
<判断を迷わせるものを断つ>
落ち着いたところで、那覇で合流する予定の友人に電話をいれる。そして、すまないが今後は旅先で合流する計画は、なしにしてくれるように頼んだ。判断はあくまでも安全が最優先でなくてはならない。人が待っているから多少無理してでもいかなければ…という状況をつくったこと。それもあの大波にでてしまった一つの要因だったことを反省した。結局台風の接近で彼らは那覇に来られなかった。友人達が沖縄に入ったのは、私が与論島に渡ってからのことだった。
<どっきりカメラか? 友人による深夜の出迎え>
深夜に那覇についたフェリー。事前に沖縄カヤックセンターの仲村さんに連絡をしてあり、そちらにお邪魔することになっていた。だけど深夜だ。港からは、とりあえず数十分かけてでも歩いていかないと行けない。ま、それも旅だと思っていた。タラップをおりていくと、見知った顔が手を振っている。え?、まさか…。 ツアーで仲村さんのショップに来ていた、レイドバック(関東のカヤックショップ)の北田さんと、駒崎さんだった。深夜である。まさかのサプライズ出迎えに感動しないではいられなかった。
ただただ、ありがたい。

いまは移転しているが、懐かしき13年前の沖縄カヤックセンター。辻2町目、ソープランド街の片隅の建物だ。通りをとおって買い出しなど行くと、度々「かわいいこいるよ〜」といって呼びかけられた。
翌朝カヤックを港から回収。そして流出した装備をカヤックセンターで再び補充。仲村さんに旅のコースのアドバイスなど受ける。あの大波以来、自分の中で何かが変わった。仲村さんの話を聞きながら、静かな自信に満ちて海図をながめている自分だった。
那覇を出てケラマ諸島をまわり、渡名喜島、粟国島、伊江島、伊是名、伊平屋など離島コースをいくことにする。仲村さん曰く「なかなか男らしいコース」なのだそうだ。
フェリーの中で見知らぬおじさんと仲良くなり、旅の話、沖縄の島々の話などし、「旅の無事を祈っているよ」と暖かい言葉を残してくれた。そして降りたら友人の出迎え。行く先々で人々との出会いや巡り合わせに支えられていた。
2013年04月21日
南西諸島航海記 さようなら八重山
<さようなら八重山諸島>
呆然としてると、遠くからジェットスキーが向かってきた。だれだ。それは、ANAコンチネンタルホテルでビーチガードをしていた、友人の鶴ちゃんだった。なんでも凄まじい波を超えてリーフに入ろうとしていた私のカヤックが(おそらく泳いで引いているのが)見え、心配になって駆けつけてくれたのだ。「いやあ、やばっかたよ〜!!」なんて堰をきったように話し始めた私。唇が震えていたと思う。嬉しくてたまらなかったのだ。人と話し、ようやく自分が生きている実感が持てたのだ。鶴ちゃんも「あれを入ってこようというところがすごい…」と、呆れまじりの感心ぶりだった。普通ならはあんなことはしてはいけないのだ。
「すぐ近くのビーチで仕事してるから、よっていきなよ」という誘いに乗り、気を取り直して数百メートル漕ぐ。そこはANAホテルのプライベートビーチ。真っ白な砂浜。まるで楽園だった。ついぞさっき死の際の恐怖を味わったばかり。そして気がつけば美しいビーチで、木陰でトロピカルドリンクをごちそうになっている。私は呆然と沖で崩れるリーフの波をみた。あれの外とここは、まさに天国と地獄。ビキニのお姉ちゃん達はあたかも楽園の天使にみえてならなかった。

ANAホテルの楽園ビーチ
私は海にも、友人にも、あらゆる意味で感謝し、楽園を後にして石垣港へ向かった。フェリーにカヤックを預け、那覇行きの支度を終える。そして民宿まえさとのひでぼうに、無事到着の連絡をいれた。鮮烈な記憶となった、2000年7月6日のことだった。

まぶしい空と海の感動、そして命がけの経験は
おおきな財産となった。

呆然としてると、遠くからジェットスキーが向かってきた。だれだ。それは、ANAコンチネンタルホテルでビーチガードをしていた、友人の鶴ちゃんだった。なんでも凄まじい波を超えてリーフに入ろうとしていた私のカヤックが(おそらく泳いで引いているのが)見え、心配になって駆けつけてくれたのだ。「いやあ、やばっかたよ〜!!」なんて堰をきったように話し始めた私。唇が震えていたと思う。嬉しくてたまらなかったのだ。人と話し、ようやく自分が生きている実感が持てたのだ。鶴ちゃんも「あれを入ってこようというところがすごい…」と、呆れまじりの感心ぶりだった。普通ならはあんなことはしてはいけないのだ。
「すぐ近くのビーチで仕事してるから、よっていきなよ」という誘いに乗り、気を取り直して数百メートル漕ぐ。そこはANAホテルのプライベートビーチ。真っ白な砂浜。まるで楽園だった。ついぞさっき死の際の恐怖を味わったばかり。そして気がつけば美しいビーチで、木陰でトロピカルドリンクをごちそうになっている。私は呆然と沖で崩れるリーフの波をみた。あれの外とここは、まさに天国と地獄。ビキニのお姉ちゃん達はあたかも楽園の天使にみえてならなかった。

ANAホテルの楽園ビーチ
私は海にも、友人にも、あらゆる意味で感謝し、楽園を後にして石垣港へ向かった。フェリーにカヤックを預け、那覇行きの支度を終える。そして民宿まえさとのひでぼうに、無事到着の連絡をいれた。鮮烈な記憶となった、2000年7月6日のことだった。
八重山諸島はほんの8日間の滞在だったが、
ここでの体験がセカンドステージでの大きな力となっていく。
ここでの体験がセカンドステージでの大きな力となっていく。

まぶしい空と海の感動、そして命がけの経験は
おおきな財産となった。

次回、いよいよセカンドステージ「那覇〜奄美航路へ」。
行く先々の島でのエピソードをお楽しみください。
行く先々の島でのエピソードをお楽しみください。
2013年04月21日
南西諸島航海記 生死の境から生還
この日、私はシーカヤック人生を通し、いや、全人生を通し、もっとも命の危険を冒した。状況を思い出せば出すほど、なぜいま生きているのだろうと不思議でならない。何かが、まだ生きろといっているとしか思えなかった。以下、当時の状況をできるだけ思い出しての回想である。 ちょっと長くなりますが、こんな失敗をしないでほしいため、あえて書かせていただきました。気長にお読みくださいませ。
2000年7月6日 白保〜石垣港へ
天気予報曰く 晴れ 東の風強く 波の高さ 3mのち4m
台風接近につれ、この日はこんな天気予報だった。このままぐずぐずしていれば3日間はさらに停滞。外でキャンプもできない。また、那覇で関東からやってくる友人達と合流する予定などもあり、スケジュール的な焦りもあった。この日でなければ…。
そして民宿の親方、仲良くなった宿泊仲間に心配されながら見送られ、私は台風のうねりで荒れ狂う白保の海に漕ぎだした。

<胸騒ぎの船出>
かつてエコマリン東京というシーカヤックショップにいた頃、師匠のトレーニングで静岡の駿河湾を50km横断したことがあった。強風波浪注意報、駿河湾フェリー欠航。西風強し。うねりは3mほど。追い風のサーフィンだ。湾の中程では丘のようなうねりだった。そこを5人の強者パドラーで漕いだ。何度も転覆しては水深2000mの青い宇宙のような海中をみつめ、ときおりエンジンがついたかのようにカヤックは飛んでいく風の中。暗くなって月明かりを頼りに対岸へたどり着いた。また、休みの度に千葉の九十九里海岸へ行き、オーバーヘッドの波をシーカヤックでのって鍛えてきた。こんな経験があっただけに自信があった。白保から石垣港へ向かうには追い風。ぐんぐん進んでいくはず。だが、地の利を知らない南西諸島。重大な誤算をしていたのだ。駿河湾にはリーフはない。ここ、石垣島は、リーフが広がっている。波はその際で激しく崩れて打ちつけているのだ。

<無視してしまった警告>
民宿まえさとのひでぼうに、「ええやつだったのお」と後で言われんにせいよと釘を刺された。何度も「大丈夫だな?」ときかれたが、自信があったので「はい!」と威勢よく答えて海に躍り出た。リーフ内は勢いよく追い風にのって進む。だがやがて、リーフの切れ目を抜けることになる。激しい白波が崩れている。まるで不意打ちのように一発、大きな波が突然叩き付け、カヤックのデッキを洗った。気がつくと、大切な防水ライトが流されていた。このとき嫌な予感がしたのだ。だが、かまわず進み続け、リーフの外へでることができてしまった。
出てしまえば、風は強いが大きなうねりだけ。背にうけてどんどん進んでいく。快調に石垣港方面にすすんだ。曇り空で海はダークブルーに染まり、巨大な谷と山が交互に後方から来てはすぎていく。激しい突風に耐えながら、漕いでいた。しかしどこかでリーフの中に入らなければ、永遠に海の上だ。港への入り口は深い水路で、入れるはずだった。だが、それさえも見分けられないほど、海は時化てしまっていた。そんな中にでてしまった。もうこの時点で、致命的な失敗だったのだ。
<決死の突入 縦になった5mのカヤック>
どれくらい時間がたったか。海はますます荒れ狂ってきた。進入路がわからないなら、どこかから崩れる波の中へ進入しなければならない。そして、もはや引き返すこともできない状況だった。岸の方へ向くと、波が激しく白く崩れている。高さ、音、いずれも師匠につれられていった九十九海岸の比ではなかった。ブレークするリーフ際に近づくにつれ、だんだん体が震え、怯えだした。体が危険を感じるのだ。もはや技術があるないを超えた世界に来てしまったことを悟ったが、もう進むしかなかった。私は自分を、やってきたあらゆる訓練を信じて進んでいった。サーフランディング。追いつく波を先に行かせ、その背を追う。それを試みた。だがうねりは、崩れる地点で、その倍近い大きさになっていた。そしていよいよ最終ラインを突破しようというとき、わたしはその波を先に行かせるため、後ろに漕いだ。だが台風のうねりのパワーとスピードの前に、そんなものは無意味だった。5m40cmのカヤックあっという間に90度に近い角度で前方に縦に持ち上がり、カヤックの後ろ端よりも高く、白く崩れる波が襲ってきたのだ。

台風のうねりは凄まじいパワー。
まさにこんな波にシーカヤックで
つっこんでいってしまった。
<神を信じるしかなかった>
一瞬、凄まじく加速したカヤック。左右に、頭上を越える白い砕け波が見えたとたん、反射的に自分からカヤックを転覆させた。縦に折れること、パドルが折れることをかばったのだ。次の瞬間、首と腕が体からもぎ取られるような激しい渦にまかれ、何度も回転した。洗濯機の脱水の回転の中というとわかるだろうか。真っ暗ななか、轟音と凄まじい水の力、そして痛みを感じ、ただ「神様!!!!」とだけ心が叫んでいた。握っていたパドルはものすごい力に引きはがされ、ただ万歳のポーズ以外できない。もう死んでもおかしくなかった。
<奇跡的なリーフイン>
気がつくとゆっくりとした水の流れになり、カヤックの下に青空が見えた。下に…? そして時々白い崩れ波が青空を覆い隠しては去っていく。そう、転覆してぶら下がっている状態で意識がはっきりしたのだ。とっさにカヤックからはい出して水面に顔をだす。再び波にもまれる。どうやらリーフの中にはいったようだった。カヤックの上にくくりつけていたものはほとんどない。みると10mほど遠くに浮かんでおり、みな勢いよくながされ、離れていく。奇跡的に携帯電話の防水ケースだけは目の前に浮かんでおり、すかさず拾う。岸まで200mほどの地点だった。私は再び水中に潜ってカヤックの座席に入り込み、パドルで起こすエスキモーロールを試みた。だが水がいっぱい入っているうえに、まだ波が絶え間なく打ちつけている。おまけにパニック状態という状況で何度も失敗し、次第に体力は失われていく。やがてあきらめ、カヤックを引っぱり、岸まで泳ぎ始めた。
消耗しきった体で泳ぎ続けていく。めがけていた場所からどんどん横に流されていく。リーフ内の潮も川のようだった。すこしづつ足がつき始めたとたん、助かったと感じた。そして歩いてカヤックを引けるようになり、無人の白い砂浜に引き上げた……。沖をみると、いま超えてきた波がうなりをあげて崩れている。

無傷であれをこえてきたのだ。とたんに腰が崩れ落ちた。腰が抜けたのだろう。そして、助かった安堵のあまり、涙があふれてきた。無人の浜をいいことに、すすり泣いていた。いい年して大人が声を上げて泣いた。自分は驕っていた。そして海を甘く見ていた。心底反省した。そして神に、驕った鼻を折られ、同時に命あって岸にあげられたことを感謝せずにはいられなかった。もう立つ気力もなかった。
白保と石垣港の中間地点でのことである。
2013年04月18日
南西諸島航海記 白保へ つかの間の休養
2000年7月2日 晴れ 小浜島から石垣島へ再び
旅に出る前、パタゴニアの友人がよく石垣島の白保のことを話してくれた。WWFが珊瑚の保護活動をする拠点がこの白保にあるのだ。そして親しくしている民宿の親方を紹介してくれた。まずは石垣島へ渡り、白保を目指すことにする。

さらば小浜島。明るくなってみると島の姿がよくわかる。
<登野城漁港の酒盛り再び 疲れ知らずの海人たち>
初日にお世話になった登野城漁港をとおりががったとき、もう昼前だった。小浜島から17kmの横断。前2日間の強行で疲れていたので、あがって休むことにする。そして私は目を疑った。なんと、あれだけ飲みまくっていた海人のみなさんが、今度は昼間っから生ビールサーバーでビアパティーをしていたのだ!!
きょとんと挨拶をしてはいっていくと、もちろん「おう! おまえか! 飲め飲め!」となる。この日のうちに白保へ行く予定が完全にくるってしまった。あまりの晴天で暑く、のども乾いており、渡りに舟とばかりに生ビールいただきます! 何事かときけば、学校の子供達の漁業体験会で、登野城のみなさんが午前中に協力していたとのこと。その打ち上げに見事に遭遇してしまった(ラッキー?)というわけである。
そして再び暗くなるまで語り合い、またまたハーリーの舟置き場にて寝かせていただくことになった。倉庫にカヤックをいれ、旅の不思議に感謝して眠る。だいぶ飲んだ。翌朝、カヤックの座席にあった米がネズミに食い荒らされていた。 家賃?
<石垣島 白保にて休養>

白保の海岸にて
友人の紹介で白保の民宿「まえさと」を訪ね、ここで3泊のんびりとして骨を休めた。オーナー「ひでぼう」がおもしろく、とても親切。そしてこうい場所には旅人があつまり、すっかり仲良くなって居心地がよかったのだ。泡盛をのみながらそれぞれの旅の話に耳を傾ける。ユースホステルのような雰囲気がまたよかった。そして屋根の下で、畳と布団で眠ることがどれほど休まるかを痛感した。こうしてこの3日間のんびりと散策し、世界一の青珊瑚をみて海で泳ぎ、楽しい時間を過ごした。

みんなで世界一の青珊瑚をみにシュノーケリング
すでに天気は荒れ始めていた。

パフォーマンスか。水中からガラスを掃除するオーナーの「ひでぼう」。
だがそういつまでもゆっくりもできない。いよいよ翌日には出発しようと準備をはじめる。その時、不穏な台風の接近を知らせるニュースがテレビで流れ始めており、胸騒ぎがしていた。。。
次回いよいよ八重山諸島最終章。「生死の境から生還」に続く。
旅に出る前、パタゴニアの友人がよく石垣島の白保のことを話してくれた。WWFが珊瑚の保護活動をする拠点がこの白保にあるのだ。そして親しくしている民宿の親方を紹介してくれた。まずは石垣島へ渡り、白保を目指すことにする。

さらば小浜島。明るくなってみると島の姿がよくわかる。
<登野城漁港の酒盛り再び 疲れ知らずの海人たち>
初日にお世話になった登野城漁港をとおりががったとき、もう昼前だった。小浜島から17kmの横断。前2日間の強行で疲れていたので、あがって休むことにする。そして私は目を疑った。なんと、あれだけ飲みまくっていた海人のみなさんが、今度は昼間っから生ビールサーバーでビアパティーをしていたのだ!!
きょとんと挨拶をしてはいっていくと、もちろん「おう! おまえか! 飲め飲め!」となる。この日のうちに白保へ行く予定が完全にくるってしまった。あまりの晴天で暑く、のども乾いており、渡りに舟とばかりに生ビールいただきます! 何事かときけば、学校の子供達の漁業体験会で、登野城のみなさんが午前中に協力していたとのこと。その打ち上げに見事に遭遇してしまった(ラッキー?)というわけである。
そして再び暗くなるまで語り合い、またまたハーリーの舟置き場にて寝かせていただくことになった。倉庫にカヤックをいれ、旅の不思議に感謝して眠る。だいぶ飲んだ。翌朝、カヤックの座席にあった米がネズミに食い荒らされていた。 家賃?
<石垣島 白保にて休養>

白保の海岸にて
友人の紹介で白保の民宿「まえさと」を訪ね、ここで3泊のんびりとして骨を休めた。オーナー「ひでぼう」がおもしろく、とても親切。そしてこうい場所には旅人があつまり、すっかり仲良くなって居心地がよかったのだ。泡盛をのみながらそれぞれの旅の話に耳を傾ける。ユースホステルのような雰囲気がまたよかった。そして屋根の下で、畳と布団で眠ることがどれほど休まるかを痛感した。こうしてこの3日間のんびりと散策し、世界一の青珊瑚をみて海で泳ぎ、楽しい時間を過ごした。

みんなで世界一の青珊瑚をみにシュノーケリング
すでに天気は荒れ始めていた。

パフォーマンスか。水中からガラスを掃除するオーナーの「ひでぼう」。
だがそういつまでもゆっくりもできない。いよいよ翌日には出発しようと準備をはじめる。その時、不穏な台風の接近を知らせるニュースがテレビで流れ始めており、胸騒ぎがしていた。。。
次回いよいよ八重山諸島最終章。「生死の境から生還」に続く。
2013年04月15日
南西諸島航海記 小浜島へ
2000年7月1日 晴れ
この日の分から渡名喜島につくまで日記を書いていなかった。そんな余裕もなかったのだ。なので当時を思い出し、回想することにする。
緊張、不安、興奮ですこしハイになっていたのか、まだ暗いうちから出発の支度をはじめた。ろくに眠れない夜だった。しかし海に映る星々、神秘的な朝焼け、そして野生の気配あふれる海辺に気分は高まるばかり。この日目指すは小浜島。西表島の西から東を一気に漕ぎ進むことになる。
網取からの西海岸は、複雑な入り江が入り組んでいる。そこにはマングローブの川もあるようだ。西表島にきた目的の1つはマングローブの川をカヤックで巡ること。カヤックの雑誌でその写真を見て以来、いつかいってみたいと憧れていたのだ。そして静かな早朝に、マングローブの林の探索から始めることにした。

美しい朝焼けに元気が涌く
網取の浜にて

毎日日が登る頃には海にカヤックを浮かべていた。

静かな入江に音もなく滑るカヤック。
原始的な森の空気と海の香り。かなり本格的探検気分。
感覚が研ぎ澄まされていく。

入江を抜けると無人島が現れ、しばし休息。
流れる水がオアシスだ。

途中、白浜という集落をみつけ、上陸。ここは人も住む集落だ。売店もあり、少々買い出しをする。人間の世界にひさしぶりに帰ってきたような変な気分だった。ここにはカヌーツアーのショップがあり、文明の気配にしばしほっとする。

前方にスコール。そして石垣島の影。
ここからぐいぐい西表島の北端を周り、北側を漕いでいく。が、東に向かうに連れ、沖合で強い向かい風に吹かれることに。島からは7kmほども沖にいた。風裏に入ろうとして島に近づき、致命的なミスをしてしまった。海図でもはっきり記述されているのだが、座礁するほどの遠浅なエリアが、数キロにわたって広がっている。そこにはまってしまったのだ。船はサンゴに乗りあげて止まった。陸からはまだほど遠い。しかも潮はどんどん引き続けている。このままでは、完全に何キロも担がなくてはならない。しかし荷物が満載でそんなことは出来ない。なんとかして脱出しなくてはならない。私は必至に海図と周囲の様子を眺め、少しでも水深が残っていそうな場所を探した。
そのときのヒントは、エンジン船の通り道だ。そう、エンジン船がそう遠くないところを行き来していた。そこまで行けばなんとかなる。私は泣く泣くサンゴをぼきぼき折り、カヤックをガリガリとひきづり、深みを目指して歩いた。そして100mほどあるいたところで、どうにか深い水路を見つけて再び漕ぎ出すことができた。一安心だ。だが、ごの後もいつ座礁するともわからないので慎重にリーフの外を進んだ。そうすると風にまともに吹かれるがやむを得なかった。すると、前方の岸近くに大型の船が停泊している。岸から近い。そうか、もうあそこまでいけばリーフはなく、岸に近づくことができると判断。沖合からその船めがけ、少々島に近づいた。このとき、潮は上げてきていたので、だいぶ水深も戻っていた。だんだんと大型船に近づく。やがて、あれ? と不思議になってきた。水深がもどって進むことはできるが、大型船に近づくに連れ、先ほど座礁したときとさほど変わらない浅瀬になってきたのだ。あの船はなんでこんなところにあるのか…。あそこだけ急に深い場所なのか…。疑問が増す。やがて船の様子がはっきり分かるほど近づいた時答えはでた。

まぎらわしいこいつのおかげで
あわや2度めの座礁をしかける


そして必至に向かい風にさらって漕ぐ。漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ。力尽きて上陸。また漕ぐ、漕ぐ。朦朧としてくる。やがて小浜島が眼前に見えるところへきた。このときすでに夕方。迷ったが、マンタの通り道で有名なヨナラ水道を越え、小浜島へ渡った。またもやほとんど力尽きていた。どうにかスロープをみつけて上陸。もうくらいので誰もおらず、港のパーラーにいっても閉まっていた。ヘトヘトな体で夕飯をつくって眠る。それにしても夜空の星がものすごく明るい。空気がすんでいるのだろう。前日のにわか雨のことを思い出し、テントを張った。どこかから、三線の音色が聞こえ、沖縄らしい夜が更けていく。

西表島 網取 〜 小浜島 漕行距離27海里(約50km)
この日の分から渡名喜島につくまで日記を書いていなかった。そんな余裕もなかったのだ。なので当時を思い出し、回想することにする。
緊張、不安、興奮ですこしハイになっていたのか、まだ暗いうちから出発の支度をはじめた。ろくに眠れない夜だった。しかし海に映る星々、神秘的な朝焼け、そして野生の気配あふれる海辺に気分は高まるばかり。この日目指すは小浜島。西表島の西から東を一気に漕ぎ進むことになる。
網取からの西海岸は、複雑な入り江が入り組んでいる。そこにはマングローブの川もあるようだ。西表島にきた目的の1つはマングローブの川をカヤックで巡ること。カヤックの雑誌でその写真を見て以来、いつかいってみたいと憧れていたのだ。そして静かな早朝に、マングローブの林の探索から始めることにした。

美しい朝焼けに元気が涌く
網取の浜にて

毎日日が登る頃には海にカヤックを浮かべていた。

静かな入江に音もなく滑るカヤック。
原始的な森の空気と海の香り。かなり本格的探検気分。
感覚が研ぎ澄まされていく。

入江を抜けると無人島が現れ、しばし休息。
流れる水がオアシスだ。

途中、白浜という集落をみつけ、上陸。ここは人も住む集落だ。売店もあり、少々買い出しをする。人間の世界にひさしぶりに帰ってきたような変な気分だった。ここにはカヌーツアーのショップがあり、文明の気配にしばしほっとする。

前方にスコール。そして石垣島の影。
ここからぐいぐい西表島の北端を周り、北側を漕いでいく。が、東に向かうに連れ、沖合で強い向かい風に吹かれることに。島からは7kmほども沖にいた。風裏に入ろうとして島に近づき、致命的なミスをしてしまった。海図でもはっきり記述されているのだが、座礁するほどの遠浅なエリアが、数キロにわたって広がっている。そこにはまってしまったのだ。船はサンゴに乗りあげて止まった。陸からはまだほど遠い。しかも潮はどんどん引き続けている。このままでは、完全に何キロも担がなくてはならない。しかし荷物が満載でそんなことは出来ない。なんとかして脱出しなくてはならない。私は必至に海図と周囲の様子を眺め、少しでも水深が残っていそうな場所を探した。
そのときのヒントは、エンジン船の通り道だ。そう、エンジン船がそう遠くないところを行き来していた。そこまで行けばなんとかなる。私は泣く泣くサンゴをぼきぼき折り、カヤックをガリガリとひきづり、深みを目指して歩いた。そして100mほどあるいたところで、どうにか深い水路を見つけて再び漕ぎ出すことができた。一安心だ。だが、ごの後もいつ座礁するともわからないので慎重にリーフの外を進んだ。そうすると風にまともに吹かれるがやむを得なかった。すると、前方の岸近くに大型の船が停泊している。岸から近い。そうか、もうあそこまでいけばリーフはなく、岸に近づくことができると判断。沖合からその船めがけ、少々島に近づいた。このとき、潮は上げてきていたので、だいぶ水深も戻っていた。だんだんと大型船に近づく。やがて、あれ? と不思議になってきた。水深がもどって進むことはできるが、大型船に近づくに連れ、先ほど座礁したときとさほど変わらない浅瀬になってきたのだ。あの船はなんでこんなところにあるのか…。あそこだけ急に深い場所なのか…。疑問が増す。やがて船の様子がはっきり分かるほど近づいた時答えはでた。
その船は座礁して朽ちた船だった。

まぎらわしいこいつのおかげで
あわや2度めの座礁をしかける


そして必至に向かい風にさらって漕ぐ。漕ぐ、漕ぐ、漕ぐ。力尽きて上陸。また漕ぐ、漕ぐ。朦朧としてくる。やがて小浜島が眼前に見えるところへきた。このときすでに夕方。迷ったが、マンタの通り道で有名なヨナラ水道を越え、小浜島へ渡った。またもやほとんど力尽きていた。どうにかスロープをみつけて上陸。もうくらいので誰もおらず、港のパーラーにいっても閉まっていた。ヘトヘトな体で夕飯をつくって眠る。それにしても夜空の星がものすごく明るい。空気がすんでいるのだろう。前日のにわか雨のことを思い出し、テントを張った。どこかから、三線の音色が聞こえ、沖縄らしい夜が更けていく。

西表島 網取 〜 小浜島 漕行距離27海里(約50km)