2013年04月24日
南西諸島航海記 那覇から慶良間へ横断
慶良間列島へ
2000年7月8日
晴れ 東の風やや強く 波3m うねりをともなうでしょう
<再出発>
那覇で落ち合うはずの友人たちは、台風接近にともなって飛行機が欠航となってしまった。しかし間一髪、彼女のHILOは間に合い、7日に那覇入りしていたのだ。久しぶりに2人して町中に繰り出し、大波で流出した帽子やサングラスなどをそろえる。パドルフロート(転覆したとき再度乗り込むための浮き)、ビルジポンプ(座席の排水用ポンプ)、防水ライトを沖縄カヤックセンターで、そして那覇の量販店で防水カメラも再購入。痛かったのは中の記録写真ごと失ったことだ。変な話、外身はいくらでも換えはあるが、写真は取り返せない。あの時流されたフィルムには何が写っていたか。
<胸騒ぎの警告なし 出発を決意>
まだ薄暗い早朝からカヤックを引いていく。カヤックセンターから10分も歩くと波の上公園という場所があり、そこから出艇できる。そこまで例のソープランド街を通り抜けていく。シーカヤックを引いて歩いている私は違和感満々である。さすがに早朝は呼び込みはない。時度疲れ果てた顔で歩いてる若い女性は、勤務あけのソープ嬢のお姉ちゃんだろうか。公園につくと、カヤックを浮かべ、漕ぎだす。HILOに見送られ、一路海へ。大波でラダーが90度近くまがっていたときは、もう旅はおしまいかと思った。でも意外に力づくで直ったので安心。まだ旅が続き、再び出発できることがたまらなく嬉しかった。
自分の身の程を知った者だけしか勝ち得ない、静かな自信。あの大波が授けてくれた、この海を生き抜くための鍵。静かな自信にみちていると、危険の兆候や不吉な胸騒ぎに敏感になる。この日も天気予報では凄まじいことを言っていた。しかし慶良間の前島、渡嘉敷へは、かつて単独で横断した経験があった。たとえ巨大なうねりがあっても、石垣島とは違う。それをクリアーできる地の利を知っていたこともあるが、胸騒ぎはまるでしない。行くべしと判断した。
<うねりを越えて前島、渡嘉敷、座間味へ>
那覇から離れるにつれ、どんどんと背中を東風が押してくれる。爽快な前進。やがて濃紺の外洋まっただ中では、南(ケラマに向かい、左手)から大きなうねりが入ってきていた。さすがに3mと天気予報が言うだけある。前方には前島の陰がはっきり見える。距離は約20kmか。自分の居場所からその前島をつなぐ長いラインが、同じうねりとして同時に動いている。まさに巨大な谷と山が動いているようだった。さて、計算で行けば、のんびりいっても午後3時くらいには目的地の座間味島に上陸する。12時間近く漕いでいた八重山としたら、仕事早あがりのような気楽な気分だった。

爽快な追い風にのって前島へ到着。
すかっとする青い海と空。

前島に上陸して休憩。途中で陸にあがれるのはいいものだ。
大空に両手をあげて深呼吸する。

渡嘉敷島付近の海の色。南らしい。
天気快調の中、このまま渡嘉敷島へ。そしてギシップ島との間を北回りで入り、渡嘉志久海岸へ。そこで、深夜迎えにきてた北田さん、駒崎さん、そしてカヤックガイドの大城さんのツアーメンバーと(現漕店代表)合流して一休み。

深夜港に迎えにきてくれた駒崎さん(左)と私(右)。
二人して野人のような風貌を気にもしていない。

大城さん(左から2番目)はシーカヤックの大先輩。
旅先でもたいへん助けられた。
<台風が来るけどどうする?>
渡嘉志久ビーチで上陸すると、ツアーのお客さん達は大にぎわい。みんなソロの旅をしている輩に興味津々の様子。私のカヤックを面白そうにみていた。
あと2日もすると南方から台風がのぼってくるのはわかっていた。ケラマで停滞か、あるいは…。いろいろ考えていたらやはり大城さんから一言。「残って台風が去るまで島に缶詰になるか、カヤックを置いてフェリーでいったん那覇へ帰るかしないといかんよ」。
私は考えた。……。また那覇に? しかし前に進むためにまたここくるのなら、いっそ島で台風をやり過ごそう。「大丈夫。残って停滞する。」そう答えて見送られ、先にHILOがフェリーで行って待っている座間味島へ向かった。風は強まっていた。ぐんぐんと渡嘉敷島と座間味島の間を流れていき、午後2:30、座間味島の古座間味ビーチへたどり着いた。やはり早あがり。明るいうちに上陸できることが安心だ。

座間味島にて。余裕の到着。
<阿真ビーチにて4日間の避難生活へ>
古座間味ビーチで泳いでいたHILOがカヤックの脇から手を振っている。しばしいっしょに泳ぎ、久しぶりに海を満喫した。そして夕方には隣の阿真ビーチへ移動し、キャンプすることにした。のんきな我々を置いて、キャンプ場はざわついていた。それもそのはず、台風4号が2日後には直撃に近いコースでくる。フェリーも翌日には欠航。キャンプ場の管理人さんも、ちょうど閉鎖して帰るところだった。事情を話すと心配してくれ、事務所の建物の大きな屋根の下でテントを張ってもいいよとお許しいただいた。ありがたい。でなければテントごと吹っ飛ばされていただろう。
やがてちらほらいたお客さんもどんどん逃げていき、HILOと2人、台風避難民のような4日間がはじまった。まさにサバイバルキャンプだ。

午前6:30〜午後2:30 約8時間
2000年7月8日
晴れ 東の風やや強く 波3m うねりをともなうでしょう
<再出発>
那覇で落ち合うはずの友人たちは、台風接近にともなって飛行機が欠航となってしまった。しかし間一髪、彼女のHILOは間に合い、7日に那覇入りしていたのだ。久しぶりに2人して町中に繰り出し、大波で流出した帽子やサングラスなどをそろえる。パドルフロート(転覆したとき再度乗り込むための浮き)、ビルジポンプ(座席の排水用ポンプ)、防水ライトを沖縄カヤックセンターで、そして那覇の量販店で防水カメラも再購入。痛かったのは中の記録写真ごと失ったことだ。変な話、外身はいくらでも換えはあるが、写真は取り返せない。あの時流されたフィルムには何が写っていたか。
<胸騒ぎの警告なし 出発を決意>
まだ薄暗い早朝からカヤックを引いていく。カヤックセンターから10分も歩くと波の上公園という場所があり、そこから出艇できる。そこまで例のソープランド街を通り抜けていく。シーカヤックを引いて歩いている私は違和感満々である。さすがに早朝は呼び込みはない。時度疲れ果てた顔で歩いてる若い女性は、勤務あけのソープ嬢のお姉ちゃんだろうか。公園につくと、カヤックを浮かべ、漕ぎだす。HILOに見送られ、一路海へ。大波でラダーが90度近くまがっていたときは、もう旅はおしまいかと思った。でも意外に力づくで直ったので安心。まだ旅が続き、再び出発できることがたまらなく嬉しかった。
自分の身の程を知った者だけしか勝ち得ない、静かな自信。あの大波が授けてくれた、この海を生き抜くための鍵。静かな自信にみちていると、危険の兆候や不吉な胸騒ぎに敏感になる。この日も天気予報では凄まじいことを言っていた。しかし慶良間の前島、渡嘉敷へは、かつて単独で横断した経験があった。たとえ巨大なうねりがあっても、石垣島とは違う。それをクリアーできる地の利を知っていたこともあるが、胸騒ぎはまるでしない。行くべしと判断した。
<うねりを越えて前島、渡嘉敷、座間味へ>
那覇から離れるにつれ、どんどんと背中を東風が押してくれる。爽快な前進。やがて濃紺の外洋まっただ中では、南(ケラマに向かい、左手)から大きなうねりが入ってきていた。さすがに3mと天気予報が言うだけある。前方には前島の陰がはっきり見える。距離は約20kmか。自分の居場所からその前島をつなぐ長いラインが、同じうねりとして同時に動いている。まさに巨大な谷と山が動いているようだった。さて、計算で行けば、のんびりいっても午後3時くらいには目的地の座間味島に上陸する。12時間近く漕いでいた八重山としたら、仕事早あがりのような気楽な気分だった。

爽快な追い風にのって前島へ到着。
すかっとする青い海と空。

前島に上陸して休憩。途中で陸にあがれるのはいいものだ。
大空に両手をあげて深呼吸する。

渡嘉敷島付近の海の色。南らしい。
天気快調の中、このまま渡嘉敷島へ。そしてギシップ島との間を北回りで入り、渡嘉志久海岸へ。そこで、深夜迎えにきてた北田さん、駒崎さん、そしてカヤックガイドの大城さんのツアーメンバーと(現漕店代表)合流して一休み。

深夜港に迎えにきてくれた駒崎さん(左)と私(右)。
二人して野人のような風貌を気にもしていない。

大城さん(左から2番目)はシーカヤックの大先輩。
旅先でもたいへん助けられた。
<台風が来るけどどうする?>
渡嘉志久ビーチで上陸すると、ツアーのお客さん達は大にぎわい。みんなソロの旅をしている輩に興味津々の様子。私のカヤックを面白そうにみていた。
あと2日もすると南方から台風がのぼってくるのはわかっていた。ケラマで停滞か、あるいは…。いろいろ考えていたらやはり大城さんから一言。「残って台風が去るまで島に缶詰になるか、カヤックを置いてフェリーでいったん那覇へ帰るかしないといかんよ」。
私は考えた。……。また那覇に? しかし前に進むためにまたここくるのなら、いっそ島で台風をやり過ごそう。「大丈夫。残って停滞する。」そう答えて見送られ、先にHILOがフェリーで行って待っている座間味島へ向かった。風は強まっていた。ぐんぐんと渡嘉敷島と座間味島の間を流れていき、午後2:30、座間味島の古座間味ビーチへたどり着いた。やはり早あがり。明るいうちに上陸できることが安心だ。

座間味島にて。余裕の到着。
<阿真ビーチにて4日間の避難生活へ>
古座間味ビーチで泳いでいたHILOがカヤックの脇から手を振っている。しばしいっしょに泳ぎ、久しぶりに海を満喫した。そして夕方には隣の阿真ビーチへ移動し、キャンプすることにした。のんきな我々を置いて、キャンプ場はざわついていた。それもそのはず、台風4号が2日後には直撃に近いコースでくる。フェリーも翌日には欠航。キャンプ場の管理人さんも、ちょうど閉鎖して帰るところだった。事情を話すと心配してくれ、事務所の建物の大きな屋根の下でテントを張ってもいいよとお許しいただいた。ありがたい。でなければテントごと吹っ飛ばされていただろう。
やがてちらほらいたお客さんもどんどん逃げていき、HILOと2人、台風避難民のような4日間がはじまった。まさにサバイバルキャンプだ。

午前6:30〜午後2:30 約8時間
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