2013年04月29日
南西諸島航海記 渡名喜島へ
さあ、再び13年前の記憶へタイムトリップしましょう。。。台風のため、座間味島で4日間の停滞生活。5日目にしてようやくケラマを旅立ちます。そして北西の渡名喜島、粟国島と離島をまわり伊江島へ、やがて奄美群島の横断へ向かいます。それでは、再び、非日常のカヤックトリップ、楽しみください。
2000年 7月12日 南の風 波の高さ1.5m
4日間も同じ場所でのんびりしていると、旅立つのもなんだか淋しくなる。再び外洋に向かう緊張が走るが、すぐに感覚が旅モードにもどった。これから大海原へ踊り出るときのあの勇壮な気分、そしていい意味での感覚の高揚はすばらしいものだ。
<日々、宇宙へ向かうような祈り>
外洋のまっただ中は海の生き物たちの世界。そこへ手漕ぎ船で出て行く。人間の力がコントロールできる世界ではない。どんなに準備をしても、何が起きるかわからない未知の宇宙でもある。つまり、生きて再び陸に立てるとは限らないのだ。
八重山での体験からもそうだが、私はいつも出艇前に自然と祈りを捧げるようになっていた。それは大自然の神へ、航海の無事を願う祈り。そして海の生き物たちへ、非力な人間にこの海を通らせて頂くことの、許しを頂く祈りだった。そんな祈りを心を鎮めて捧げると、必ず答えが帰ってくる。安らかで暖かな感触がこみ上げてくるときは、そのお許しを頂いた時、逆に乱れを感じたり胸騒ぎのするときは、海を渡るのに誤った気持ちでいる時だとおもっている。
無事に陸についた後、生きてここまで運んで頂けたことを、海と、その場で生きるすべての生き物たちに感謝していた。再び陸に立つことは、決して当たり前なことではない。

以下、当時の日記より
台風4号で4日間、座間味に缶詰だった。HILOのおかげでゆかいな停滞だった。今日のAM8:00にザマミを出てHILOと別れた。いろいろと助けてくれたことがありがたい。

晴れ渡る水平線にくっきり見えた渡名喜島。
漕ぐこと4時間、渡名喜島につき、湾の入り口でHILOに電話をし、無事を伝えた。海は青く、深かった。のんびりと泳ぐ海亀の子がかわいらしい。

東側の、人気のない湾に上陸。南風がここちよく、
実に気持ちのいいパドリングだった。
島についても、人気がなく、ひっそりとしていた。のどかな感じ。歩いて島の反対に回るが、食堂なし。店もなし。ターミナルにも、かき氷とコーヒーのみ。
しかし日射が暑い。じりじりとくる。

リーフ座礁の心配はなく、ビーチに上陸してほっとする。

はやくつくと、今度は何をしていいか途方に暮れる。
役場のそばの地図で店をみつけ、探す。しかし一体この島は何だ。集落が迷路のようだ。どこまでいっても似たような十字路ばかり。迷っていると、島の女の子(こども)が手を振ってくれた。人なつこいなあ。やがてパーラーをみつけたおれは、ピタッと止まって入ってしまった。そこは、ミニトラックが台所みたくなっていて、キャンピングカーのようだった。暑さと空腹でたまらず生ビール! うまい!

パーラーのご主人。こんな出会いがほっとする。

つかまえたカマキリを自慢気にみせる女の子。
ご主人と話していると、やっと島で人と会えた気がしてほっとした。すると、さっきの小さな女の子もきて、カマキリをみせておしゃべりがはじまった。当たり前だけど、4才くらいのその子も島の方言を話す。それを聞き、ああ、島だなあと嬉しくなった。
ご主人は昔、船のりで、あちこち外国へいったらしい。マグロ船だ。何でも、その船が沈み、47日間漂流していたことがあったらしい。一番辛かったのは、タバコと酒がなかったことだそうだ。助かってこその冗談だろう。パーラーのあるところは、去年まで家だったが、台風でふっとび、こわし、そしてパーラーにしたという。オープン12日目のキャンピングカーのようなパーラーだった。ごちそうしてくれた久米島のタコはうまくて、ビールと、女の子と、おじさんの人柄とともに、豊かな気分にしてくれた。どうもありがとうございました。 (7月12日 渡名喜島にて記す)

ごちそうになった久米島のタコ。うまかったです。
<昼間は出てこない、島の人達>
パーラーの生ビールとおしゃべりですっかりいい気分の私は、再び島の散策へ。上陸した東側からフェリーの着く西側まで、15分も歩けばいけてしまう距離だった。山の上の見晴台のようなところには、昔島との間で合図の狼煙をあげていた遺跡もあった。空が夕焼けに染る頃、ぼんやり見ていたらようやく人の声が聞こえ始めた。そうか、暑すぎてみんな夕方から動き出すのかと納得。

島の西側。村はこちらに集中している。

中央、遠くに見えるのは久米島。
手前右側の小さな島は、
米軍の射撃訓練場らしい。
<海の男、パーラーのおじさん。旅人に十得ナイフを授ける>
夕方になり(といっても7時頃)、夕飯を作っていたら、バイクがとまった。昼間のパーラーのおじさんだった。一体どこに上陸したのか気になって探してくれていたのだ。カヤックを見るなり、大変心配そうな表情になった。細いワイヤーだけで動くラダーなど、とくに心もとなかったようだ。「こんなもろいつくりなのか…。海では何がおきるかわからんからな…」。漂流経験がある海人だけに、その言葉は重かった。しかし登野城漁港のような不安は沸かなかった。おじさんのいうことは正しかった。しかし、死にそうなことも体験し、無事に横断も経験してきた静かな自信があった。何が起きるかわからないが、かといって必要以上に恐れなくてもいい。それを体でわかっていたのだろう。
さっき海岸で大勢がにぎやかにしていたことを言うと、あれは役場の人達が、仕事終わるなり海で酒を飲んでいるんだという。ほぼ毎日そうらしい。「おれはああいうのが大っ嫌いなんだ! たいして仕事もしないくせに飲むことだけは一生懸命だ!」 と一喝。はっきりこう言ったか覚えてないが、何かこんなようなことを言っていて、そうだそうだと大変頷いてしまったことだけ、やたら覚えている。

美しい夕焼け。これでようやく8時頃。
そしておじさんはパーラーのつまみと、自分が海でお守りのように持っていたという十得ナイフを授けてくれた。もうドライバー先が丸くて年季が入っていたが、なんとも心強いお守りだった。
次回「粟国島 ナヴィの島へ」
2000年 7月12日 南の風 波の高さ1.5m
4日間も同じ場所でのんびりしていると、旅立つのもなんだか淋しくなる。再び外洋に向かう緊張が走るが、すぐに感覚が旅モードにもどった。これから大海原へ踊り出るときのあの勇壮な気分、そしていい意味での感覚の高揚はすばらしいものだ。
<日々、宇宙へ向かうような祈り>
外洋のまっただ中は海の生き物たちの世界。そこへ手漕ぎ船で出て行く。人間の力がコントロールできる世界ではない。どんなに準備をしても、何が起きるかわからない未知の宇宙でもある。つまり、生きて再び陸に立てるとは限らないのだ。
八重山での体験からもそうだが、私はいつも出艇前に自然と祈りを捧げるようになっていた。それは大自然の神へ、航海の無事を願う祈り。そして海の生き物たちへ、非力な人間にこの海を通らせて頂くことの、許しを頂く祈りだった。そんな祈りを心を鎮めて捧げると、必ず答えが帰ってくる。安らかで暖かな感触がこみ上げてくるときは、そのお許しを頂いた時、逆に乱れを感じたり胸騒ぎのするときは、海を渡るのに誤った気持ちでいる時だとおもっている。
無事に陸についた後、生きてここまで運んで頂けたことを、海と、その場で生きるすべての生き物たちに感謝していた。再び陸に立つことは、決して当たり前なことではない。

以下、当時の日記より
台風4号で4日間、座間味に缶詰だった。HILOのおかげでゆかいな停滞だった。今日のAM8:00にザマミを出てHILOと別れた。いろいろと助けてくれたことがありがたい。

晴れ渡る水平線にくっきり見えた渡名喜島。
漕ぐこと4時間、渡名喜島につき、湾の入り口でHILOに電話をし、無事を伝えた。海は青く、深かった。のんびりと泳ぐ海亀の子がかわいらしい。

東側の、人気のない湾に上陸。南風がここちよく、
実に気持ちのいいパドリングだった。
島についても、人気がなく、ひっそりとしていた。のどかな感じ。歩いて島の反対に回るが、食堂なし。店もなし。ターミナルにも、かき氷とコーヒーのみ。
しかし日射が暑い。じりじりとくる。

リーフ座礁の心配はなく、ビーチに上陸してほっとする。

はやくつくと、今度は何をしていいか途方に暮れる。
役場のそばの地図で店をみつけ、探す。しかし一体この島は何だ。集落が迷路のようだ。どこまでいっても似たような十字路ばかり。迷っていると、島の女の子(こども)が手を振ってくれた。人なつこいなあ。やがてパーラーをみつけたおれは、ピタッと止まって入ってしまった。そこは、ミニトラックが台所みたくなっていて、キャンピングカーのようだった。暑さと空腹でたまらず生ビール! うまい!

パーラーのご主人。こんな出会いがほっとする。

つかまえたカマキリを自慢気にみせる女の子。
ご主人と話していると、やっと島で人と会えた気がしてほっとした。すると、さっきの小さな女の子もきて、カマキリをみせておしゃべりがはじまった。当たり前だけど、4才くらいのその子も島の方言を話す。それを聞き、ああ、島だなあと嬉しくなった。
ご主人は昔、船のりで、あちこち外国へいったらしい。マグロ船だ。何でも、その船が沈み、47日間漂流していたことがあったらしい。一番辛かったのは、タバコと酒がなかったことだそうだ。助かってこその冗談だろう。パーラーのあるところは、去年まで家だったが、台風でふっとび、こわし、そしてパーラーにしたという。オープン12日目のキャンピングカーのようなパーラーだった。ごちそうしてくれた久米島のタコはうまくて、ビールと、女の子と、おじさんの人柄とともに、豊かな気分にしてくれた。どうもありがとうございました。 (7月12日 渡名喜島にて記す)

ごちそうになった久米島のタコ。うまかったです。
<昼間は出てこない、島の人達>
パーラーの生ビールとおしゃべりですっかりいい気分の私は、再び島の散策へ。上陸した東側からフェリーの着く西側まで、15分も歩けばいけてしまう距離だった。山の上の見晴台のようなところには、昔島との間で合図の狼煙をあげていた遺跡もあった。空が夕焼けに染る頃、ぼんやり見ていたらようやく人の声が聞こえ始めた。そうか、暑すぎてみんな夕方から動き出すのかと納得。

島の西側。村はこちらに集中している。

中央、遠くに見えるのは久米島。
手前右側の小さな島は、
米軍の射撃訓練場らしい。
<海の男、パーラーのおじさん。旅人に十得ナイフを授ける>
夕方になり(といっても7時頃)、夕飯を作っていたら、バイクがとまった。昼間のパーラーのおじさんだった。一体どこに上陸したのか気になって探してくれていたのだ。カヤックを見るなり、大変心配そうな表情になった。細いワイヤーだけで動くラダーなど、とくに心もとなかったようだ。「こんなもろいつくりなのか…。海では何がおきるかわからんからな…」。漂流経験がある海人だけに、その言葉は重かった。しかし登野城漁港のような不安は沸かなかった。おじさんのいうことは正しかった。しかし、死にそうなことも体験し、無事に横断も経験してきた静かな自信があった。何が起きるかわからないが、かといって必要以上に恐れなくてもいい。それを体でわかっていたのだろう。
さっき海岸で大勢がにぎやかにしていたことを言うと、あれは役場の人達が、仕事終わるなり海で酒を飲んでいるんだという。ほぼ毎日そうらしい。「おれはああいうのが大っ嫌いなんだ! たいして仕事もしないくせに飲むことだけは一生懸命だ!」 と一喝。はっきりこう言ったか覚えてないが、何かこんなようなことを言っていて、そうだそうだと大変頷いてしまったことだけ、やたら覚えている。

美しい夕焼け。これでようやく8時頃。
そしておじさんはパーラーのつまみと、自分が海でお守りのように持っていたという十得ナイフを授けてくれた。もうドライバー先が丸くて年季が入っていたが、なんとも心強いお守りだった。
次回「粟国島 ナヴィの島へ」
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