2013年04月11日
南西諸島航海記
それはいまから13年前のこと。西暦2000年、6月。私は沖縄の八重山諸島、石垣島へ降りたった。夢見ていた南西諸島をシーカヤックで巡る旅をするためだ。最後の荷物の確認をし、眠れないほど興奮していた。いよいよ、はじまる時が来たのだ。

初めての長い旅。シーカヤックでのロングトリップ。
出発前日、東京の実家にて荷物をあれこれと選ぶ。すでに旅はこの時から始まっている。

那覇で乗り継いで石垣島へ。数日前に送っておいた
愛艇のアークティックレイダーを石垣港で受け取った。
以下、当時の旅の日記より。
6月29日(木)
いよいよ旅が始まる。夢見ていた南海のカヤックによる航海の旅。patagoniaもやめ、NCKもやめ、中真も休み、踏み出した旅。きっと素晴らしいものになると信じて疑わなかった。そういう心持ちが肝心なのだ。恋人のHILOが空港まで見送りに来てくれた。1人で旅立つのと、誰かに見送られるのと、何という違いだろう。彼女には、浜からカヤックを出すときにも、これから何度か見送られることになる。
昼ごろ、上空から多良間島が見えた。ポッカリと浮かぶ島は、宇宙に浮かぶ島のようだった。ああ、あそこにも渡るのかと思い、胸が高なってきた。石垣島についたのは、それからすぐだった。機内から一歩外へ出ると、南国の熱風が吹き付ける。学生の頃にいったインドネシアMTB行を思い出していた。
港に、先に送っておいたカヤックをとりに行った。何日かぶりに見る愛艇にほっとする。しかし、何と、近くに艇をおろすスロープがない! どうしよう。色々探し、100m程離れたヨットハーバーまで、気合いを入れてかつぐことにする。暑い中、旅に来ても力仕事である。八百屋の力仕事が役立ち、うれしかった。
ハーバーからおろし、鶴ちゃんと待ち合わせの登野城漁港までこいだ。まだ漁港の周囲といってもやはり南の島。青くて澄んだ海は、これからの旅で出会う様々な海を思い起こさせてくれた。


登野城のスロープに上げ、近くの海人らしき人に声をかけた。すると、びっくりしたようす。しかし快く港におかせてくれた。それどころか、不良が夜はうろつくから、ハーリー祭の舟置場にしまわせてくれたのだ。

西伊豆のカヤックショップのお客さんだった鶴ちゃん。
コーストガードの仕事について石垣に移住していたのだ。

奄美まで行くと言ったら、一同信じられんという表情。次から次へと帰ってくる海人でにぎわい、宴会が始まった。大きな集会場に入れられ、さしみ、ビール、からあげがふるまわれた。生まれは? この舟はひっくり返らんのか? 1人か? などなど色々な質問が飛び、実ににぎやかだ。来て初日から早々、まさかこれほど海人に歓迎されるとは。旅とはわからないものである。


やがて1人、また1人と家に戻り、自分と2人の海人が残り、話していた。手漕ぎ船が実に頼りなく、心配だったようだ。潮のこと、距離のこと、色々聞いているうちにこっちも心配になってしまった。充分に計算はしてきたつもりでも、海人が言うんだから無理かなあと。夜も遅くなり、固い握手を交わして別れた。鶴ちゃんが来てくれたのは、10時30分すぎで、夜もすっかり暗くなってからだった。15~6人の海人と大騒ぎになっていたおれを見て、昼に通りかかったときにビックリしていたようだ。晩は、久しぶりの再会だったが一杯やらず(既に大量のビールをのんでいたので)、ゆっくりと眠らせてもらった。初日の夜がやってきて、明日から、航海が始まろうとしていた。



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